Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 これ以上疑えないからという理由でなにかを信じるのはやはり不誠実な態度だと思う。懐疑は知性のネガティブな側面などではまったくなく、それ自体ひとつの創造的営みである。だからこれ以上疑えないことを理由にある命題が真であると主張することは、自分が100メートルを10秒で走れないからといってそれが人類についての一般的な真理であると主張するのに似ている。これ以上疑ってもご利益がないから、ならいいと思うのだけど。その信仰は本質的には懐疑と関係していないから。

 最近スキゾイドパーソナリティ障害に興味を持っていろいろ調べている。自分はどこかおかしいという意識がずっとあって、さまざまな概念を自身に当てはめてきたけれど、今のところこの解釈が一番しっくり来ている。それほど重度なものではないのでとくに問題を生じることもないだろう。ああ、集団の規範を内面化する能力が極端に低いのはちょっとどうにかしたいかもしれない。コミュニティのノリにうまく乗っかれないのはすでに諦めてるからよいのだけど、問題は学問や技術の体系だって集団の規範であるという点である。
 だいぶ前に読んだ岡田尊司の本の中で、SPDの例としてウィトゲンシュタインが挙げられていたのを思い出した。でこれは最近知ったのだけれど彼の母親は異常に過干渉な人物であったようだ(ちょっと笑った)。僕は自分を彼に重ねすぎだろうか。