Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0204

 「罪人である自分」に対する憐憫ほど醜悪なものはない。気をつけること。

 この肉体は自然法則に縛られた物質の振る舞いに過ぎないというのに、どうしてそれが〈私〉であることが可能なのか。〈痛み〉や〈赤さ〉を擁しうるのか。15年もの間、僕はこの問いに駆動されて生きてきた。だが現在の僕にとってそれはもはや正当な問いではない。厳然たる法則に支配された冷徹で客観的な宇宙という観念を、すでに信じることができなくなっているから。その代わりにいま僕が信じているお話はこうだ。この世界に書き記されたとある物語においては、人間(あるいは知性)とそれに観測される客観的宇宙という構図は確かに意味をもつ。だがそれはあくまで一つの物語の中での話である。その物語は、観測者と被観測者を、観測という言葉の意味も含めて規定しており、それゆえに登場人物であるわれわれ人間は、ある特権的立場、つまり主観に立って客観的宇宙を観測しているように思っているのだが、それは物語の筋書き的にそうなっているだけなのであって、この物語を支えている真の自然を観測できているわけではない。そもそもそちらの自然の上では「観測」など考えることはできないのだ。そこは物語の外側なのだから。僕がこのようなお話を信じる根拠はいくつかあり、もっとも説得力があるのは、われわれの考える秩序はいくら硬くツルツルしたもの(世界の側に属するもの)に思えようとそれが破綻するポイントを示すことが出来るという経験的事実だが、僕の信仰を敷衍するならばこれもまた物語の筋書きに過ぎず、さしたる意味はない(そしてこの自己完結的な性質こそが、僕がこのお話を気に入っている最大の理由でもある)。そういうわけで、僕に残されている問いは「なぜこのお話は書かれたのか」をおいて他になく、それはもはや答えを期待できるようなものではない。物語の外には問いも答えもないのであるから。