Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0513

 問いとはなんなのだろうかと考えていた。内省してみると、問いにともなう内的感覚は焦燥に似ている。何をしたらよいかわからない居心地の悪さ。たとえば「問いとはなんだろう」と口にしてみる。そのあとに如何なる言葉を続けるべきか直ちにはわからない。わからないが何かを続けねばならない気がする。そこに生まれた真空地帯みたいなものが、問いの感じを構成している。たぶんこの世界に〈問い〉は存在しないから、この焦燥感を反省し対象化したものが問いなのだろう。探索しモデルを更新せよというシグナル。ここにおいて問いの解決とは、その状況での振る舞い方が決まるということである。「問いとはなんだろう」のあとに続けてみて違和感のない言葉の並びを発見するということである。それは必ずしも適切な振る舞い方が分かるということを意味しない。

 思考によって問題を解決するには、自分の中に世界の精密なモデルを持っていなくてはならない。めちゃくちゃなシミュレーション環境でいくらシミュレートを繰り返したところで、得られる結果はナンセンスである。そしてそのモデルを精密にする作業は当然ながら純粋な思考によっては果たせない。思考の結果と現実とを見比べてモデルの精度評価をする必要がある。このことを忘れている人たちは結構いて、彼らはたいてい運が悪い。