Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0518

 自分の意識は、自分が語ることを聞くことではなく、自分が見ているものを見ることの上にあるなあと思った。

 C.S.パースは、数学のすごさはその確実性・無謬性にあるのではなく(実際、人はしばしば演繹を間違える)、たとえ誤謬が発生したとしてもそれをすぐさま自己修正できる点にある、と述べている。ひとたび間違いを指摘されれば、ほとんどすべての数学者はすぐさま指摘を受け入れる。言ってしまえば、それが絶対の真理であるかどうかはさておき、ある一つの方向に向かって収束していくきわめて強い力を有している、ということだろう。問題は、いったいどういう条件を満たせばそういう性質を実現できるのかということである。

 次のようなことを考えたことがある。「1+1=?」という問いに9割の確率で「2」と答える人がたくさん集まって多数決をとれば、その答えはほぼ確実に2にすることができる。またニュートン法凸最適化問題を解くとき、途中で多少の数値計算のミスが混入したとしても、得られる解はほとんど変わらない。なにかこれに似た仕組みが、我々の言語の一歩手前から、演繹を支えているのではないか。多少のばらつきがあったとしても結局はそこに吸い寄せられてしまうような何らかの場が、論理の確実っぽさの後ろにあるのではないか。とするならば問題は、安定した系とカオスな系を分かつものは何なのか、ということになる。

 そもそも「安定」とは何だろう。畢竟それも言葉に過ぎない。〈安定したもの〉がこの世界に存在するわけではない。我々の身体は安定しているだろうか?外見上は恒常性が比較的長期にわたって保たれているように見える。しかしそれを構成する物質は頻繁に入れ替わっており、そういう意味では決して安定的ではない。我々の身体に住むバクテリアから見れば、そこはカオティックな激動の世界であるかもわからない。つまり安定性の観念もまたパースペクティブに依存している。あるいはそういうパースペクティブがあるおかげで我々は「安定」していられる。

 ある日原初の海に自己複製機械が現れた。その時点では「自己」にも「複製」にも明確な意味はなかったけれども。それと外界との境界は曖昧だったし、複製されたそれがオリジナルのそれと同じかどうかを判定する基準もなかった。なにせ「位置」やそれを構成する「物質」はオリジナルと「同じ」ではないのである。

 同一性が先にあったのではなく、何らかの意味での自己複製が同一の意味を定めた。というのがおそらく何らかの意味で正しい。

 父と子と、何らかの意味において。アーメン。