Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0930

 忙しい日々が続いています。忙しいのは僕が馬鹿だからで、もう少し賢くならねばならない。やることが多いときこそ一歩退いて全体を眺めてみること。

 およそ社会形態というものは、自然が人間に与える影響・暴力という不可避の矢印を、社会システムが媒介するときのその暴力の経路図によって特徴づけられるのではないか、ということを考えていた。人間は生きることを宿命付けられた存在であり、(自分の身体も含めた)自然環境は、生存を脅かす敵である。この自然が人間に与える暴力は決して防ぐことは出来ないが、ある程度分散・緩和することは可能であり、その方法の一つが徒党を組むことだ。共同体を作ることで役割を分担することが可能になり、個人としての人間が持つ限界を超えた能力を発揮することができるようになる。さてこの役割分担が、各個体の自発性に完全に依存している段階では、まだ社会というものは存在していない。この段階ではまだ各人は孤独に自然と向き合っており、ここでの他者は(予測は可能かもだが制御は不能という意味で)自然の一部である。アナーキズムとか原始共産主義はこうした状態を志向する思想だと僕は思う。このレベルの共同体は社会ではなくただの個人の集まりであり、いわば全員が個人事業主の世界であって、そういう世界では相当に高度な空気を読むセンスが必要になるだろう。つまり自然(他の個体を含む)と自分の特性を理解し、最適な行動を共同体に提供する必要があるのだ。で、これだと大変なので、課題を各人に分配する仕組みが自然発生して、それが社会なのだと思われる。自分の役割を自発的に把握できない人々に仕事を振る以上、そこにはなんらかの強制力が働かなければならない。いうまでもなく、この強制力とは自然が人間に与える影響力が形を変えたものである。この強制力を何が担うかによって、君主制とか民主政とか、資本主義とか社会主義とかが分けられる。例えば資本主義では自由な市場がその強制力を媒介する。人々の生存へ欲求(これは自然が人間に振るう暴力の反作用であり、そのものでもある)が貨幣へと形を変えて人々を駆動する。このシステムには、自由な競争によって役割分担が効率的に行われるという特徴があるという一方で、市場においては真の敵であった自然が忘れ去られ、経済それ自体が自己目的化し、最終的には共同体全体の自閉を招くという欠点がある。一方社会主義では、なんらかの権力中枢が役割分担の機能を担うが、小さな部分が全体を評価する必要があるために役割分担の精度が低く、また権力の腐敗を招きやすい。こうした問題の解決には、自然への対処の完全な自動化か、あるいは役割分担の機能を完全に自動化(脱人間化)するかしかないような気がしている。ル=グウィン「所有せざる人々」で描かれていたのは後者の世界だろう。そして現実世界は前者へと向かっているように見える。みたいなことをつらつらと考えていた。妥当かどうかは知らない。

 たとえば「フェルマーの定理が証明されたことによって、すべての組み合わせについて実際に計算してみるまでもなく、x^n + y^n = z^n (n>=3) を満たす (x, y, z) の組が存在しないことを人類は知った」と言ってみて、やはり不思議な感じがする。どう不思議なのか瞬時には言葉にできないけども、とにかく不思議に感じるのだ。この種の不思議さにしっかりと向き合う十分な時間がほしいが、現実は厳しい。現実は厳しいだって?お前は妥協しているだけなのだ。