Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

臆病者の国

 参院選に立候補していた東大教授の安冨歩さんが「臆病な人に国政を任せてはいけない」と主張しているのを読んだ。幼い頃から親や周囲の期待を背負い「成功しない自分に価値はない」と心底信じ込んだ人たちは、たしかに優秀な傾向があるし、社会的に成功することも多いが、彼らは結局自分の外側に価値判断の基準を置いてしまっているので、周囲から批判されないことを第一に行動してしまう。それが社会の歪みを作っているのではないか、という内容の記事だった。それはそうだなと思った。
 その手の臆病者が自分の臆病さを自覚するのは難しい。臆病であることは社会的成功者のイメージから遠いからだ。彼らは、たとえば、平時では「なんだアイツ」と感じている相手であっても、いざ対面するとなんだかんだ好意的に解釈して無難に調子を合わせてしまい、しかもそれを自分の機転と寛容のなせるわざだと思っていたりする。あるいは、取引先の無茶な要求を笑顔で呑んでしまい、しかしそれは自分の善意によるところだと思っていたりする。実際には目の前の相手に非難されることを恐れただけであるのに。彼は自分の臆病さに気付かないままに、ときに言葉の上では自立と体制からの独立を称揚しながら、既存の権力構造を維持する力へと加わってゆく。意図せず吐かれた嘘たちが場の構造を歪にしてゆく。東大で飽きるほど見た光景であり、かくいう自分も彼らに含まれている。
 自分の臆病さを克服し、真に自分の思うところを実行する胆力を得たとしても、臆病者の群れからは排斥されてしまうだろう。臆病な人達からすれば、彼は場の空気を乱す「不道徳な」異分子に過ぎない。組織からただ一人放り出されることは生活に関わる事態であり、たとえ勇気ある人間であっても、それは避けたいと思うのが普通だ。だから、臆病者に支配された世界は、こんどは機会的経済的圧力によって、勇気ある人たちをも支配するようになるだろう。そうして発生した臆病な全体主義的社会が、いまの日本の実相なんじゃないかと思う。どう打開すればよいのか。