Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0727

 僕が数学に対して抱いていた疑念の中核は、数学の予言性はどこから来るのかということで、その予言性は、1.数学体系内における予言性と、2.自然現象に対する予言性の2つに大別される。1.は例えば、すべての自然数を調べ尽くすことなく示されたフェルマーの最終定理の主張が、実際に無数の自然数の組に対して成り立っているよう見えること、2.は例えば、5人つづけて7人と入っていった小屋の中にいま12人がいることをなぜ計算によって確かめられるのかということである。そしてそもそもなぜ数学の予言性を問題に感じるようなったのかといえば、数学的命題が備えているよう見える必然性が、この世界において本当に特権的な地位を占めているのか、すなわち真理であるのか、気になったからである。
 僕が暫定的に与えているところの解答は、数学の必然性とは、その真理性の帰結というよりはむしろ人間が数学に要請している性質であり、自然科学に対する予言性は数学対自然ではなく人間対自然の関わりの裡に存在する、そしてこうしたことが可能になっているのは、この宇宙が何かしら気の利いた性質を持っているから、というものになるのだが、この解答は〈言語ゲームを支える方の自然〉の観念に多くを依拠しすぎていて、結局のところは概念的に少々入り組んだ諦観に過ぎないような気もする。「概念的に少々入り組んだ諦観」でないものが果たしてこの世に存在しうるのかというと怪しいのだが。

 中谷宇吉郎(「なかやうきちろう」と読むらしい)著『科学の方法』を読んでいる。中谷氏は寺田寅彦の弟子の物理学者である。この『科学の方法』は彼の科学観を述べたもので、1958年に書かれたものだが、内容はまったく古びておらず面白い。科学はあくまで「再現性」と「数値的測定」に基礎を置く人間的営みであって、べつに「自然のほんとうの姿」を明らかにするようなものではないという彼のものの見方はきわめてプラグマティックである。中谷氏は、数学は人間の頭の中で作られたものであるから、基本的には自然について何かを教えてくれるものではないと書いており、同じくプラグマティズムで有名な C. S. パースの主張と通底する。ただし彼は同時に、数学は多くの人類が考えてきたことをその構造のうちに有しており、ゆえに数学によって考えることで他人の天才を利用できるとも書いている。素晴らしいバランス感覚だと思う。
 明治~昭和中期頃の日本の科学者が持っていたある種仏教的な科学観には、世界的にみてもかなり独特なものがあったのではないかと思う。またそれはかなり正解に近いところを突いていたのではないかと(贔屓目ながら)思うのである。こうした自然観は今ではめっきり失われてしまったように見える。ただ忘れ去られたのか、消化されて目に見えないところで生き続けているのか、後者であるなら嬉しいが。