Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0229

 四年前の閏年はどんなことを考えていたっけなと日記を読み返してみて、文体の背後から仄かに香る当時の時間の流れの豊かさに懐かしい気持ちになったりした。あの頃の僕には暇があった。あらゆる「すべきこと」を放り投げて得た暇であり、つねに自意識に追い立てられてはいたが、とにかく僕は退屈していた。その退屈の価値をいまの僕はとてもよく知っているが、それゆえに、いまの僕が同じ時間を与えられても「有意義に」使うことしかできないだろう。同じ理由で「役に立たないことこそが重要なのだ」という主張は根本的に馬鹿げている。必要なのは常軌を逸した信念、それも無自覚の信念だ。あれ、なんの話をしていたのだっけ。