Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0429

 文章を書くとき、絵を描くとき、楽器を弾くとき、深く思索しようと試みるとき、僕はどうも必要以上に意気込んでしまって身体をかちこちに強張らせてしまう。だが精神を研ぎ澄ますためには、余計な一切の力は抜かなくちゃいけない。それがなかなかできなくてずっと歯がゆい思いをしている。退屈と真に友達になるには必要な能力であると思う。

 カミュ『ペスト』を読み進めています。この小説には一つの倫理的人間の類型が提示されている、と思う。それは、起こっている事態を正確に観察し「知っている」こと、世界は不条理かもしれないが、だからといって宗教や思想のような物語に安住の地を持とうとしないこと、ただひとりの人間として世界に立ち向かうことである、と僕は解釈している。それを物語という形式で主張している逆説的状況にあって、この小説はかなり自覚的な構造を持っており(ある人物による「記録」という形をとっているのは必然的なことなのだ)、その意味で物語的カタルシスはないのだが、しかしどちらかの極に振り切れることなくやじろべえのようにバランスを取り続けることが人間らしい生き方なのだと僕は信じているし、たぶんカミュもそう思っていたのだろう。と書いてみたこの感想だってこれから乗り越えていかねばならないわけだ、必要とあらば。