Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0523

 ランシエール『民主主義への憎悪』を読んでいる。フランス人思想家特有(標本数3くらい?)のレトリカルな言葉遣いがやや読みづらいが、刺激的な議論に満ちたたいへん面白い本である。そこで整理されている様々の概念を頭に入れたうえで現代社会を眺めなおしてみると、なるほどとなったりうーん?となったりして楽しい。そういえば東京都知事選に関連して外山恒一の存在を思い出し、彼の思想信条を一通り読んでみたのだが、案外ランシエールの主張と共通するものがあってこの辺は普遍的な問題意識なんだろうかと自分の不明を反省したりした。25くらいまでの自分は超越にしか興味がなかったが、人と人がどのように生きてゆくかという問題もまた重要な問題であることは否定できない、という気持ちに最近はなってきている。それを無視していいくらい世界が安泰であれば無視するんだけれど、残念ながらそうではないっぽいからな。ちなみに外山恒一は、ファシズムは戦争に負けただけであって思想として終わったわけではない、と言っているが、民主主義の最大の利点というのは実は戦争に強いことにあるのではないかと僕は考えていたりする。民主主義は統治よりもむしろ問題解決に向いている。

 〈赤さ〉の私秘性や論理の必然性は、形而上の神秘が地上に漏れて出てきたものではないか、意識の秘密がいつか帰るべき天上の世界を暗示しているのではないか、とかつては予感していたが、それらにまつわる「語り」の内容をつぶさに観察してゆくと、それが畢竟ひとつのゲームに過ぎないこと、どこまでも地上のものであることを認めざるを得なくなる。世界が言語で記述できるのは、言語が〈世界〉に届きうる射程を備えているからではなく、言語こそが世界を切り開いた当のものであるからに過ぎない。ここでいう言語とは自然言語に限定されるものではなく、身振り手振り、果ては細胞壁やら万有引力の働きまで、突き詰めれば世界の自己分節化能力そのもののことである。世界は自己分節化する。世界は自ずから世界を描き、そこに様々な秩序を書き入れる。カンヴァスの外側では無意味な秩序を。僕らはそれを解明して満足するほかないのだ。

 すべての微分可能な関数の導関数が連続であるわけではないが、しかしその導関数の値域に「欠け」があるとすると、元の関数に適当な一次関数を足すことでロルの定理が成り立たない場合を作ることができる、ということにこの前気づいた。ということは逆説的に導関数についてはそれが連続でなくても中間値の定理が成り立つことになる。証明としてなんか気持ち悪いなあと思いつつ、調べてみると実際そういうことになっているらしい。数学的重箱の隅突きの仕方が少しわかってきたようで嬉しいが、しかしすべての場合を考えつくしていないのに関わらず一般的な証明を与えられるのは奇妙なことだ、と相変わらず僕は感じる。これは証明というよりむしろ数学体系への「要請」なのだと言ってしまえばそれまでだけど。この手の背理法を用いた証明に対しては、説得力を備えた異常な反例が作れる場合がしばしばあるのではないかと僕は予感しているが、それをするだけの能力は自分にはないし、あんまりご利益もないと思う。