Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(1)

 最近めっきり衰えてしまった読書筋を鍛えなおすために、『哲学探究』を再読して読書記録を書いていくことにした。読書筋とは書いてあることを書いてあるままに読もうとするさいに使われる筋肉のことである。これが衰えるとどうなるかというと、何を読んでも自分の知っていることしかそこから読み取れなくなる。果ては世界のすべてが既知であるような錯覚にとらわれ、周囲にあふれる宇宙の神秘を素通りしたまま短い命を燃やし尽くすことになる。それは我慢ならない。
 なぜ哲学探究かといえば、これが自分にとって最も思い入れの深い本だからである。思い入れの薄い文章を本気で読むだけの熱量は自分にはない。またこれは唯一自分がある程度以上の読解に到達した(と感じられた)本でもある。それが嘘でなかったことを確かめたいという気持ちもある。
 僕は和訳として全集8巻を利用するけれど、もしかすると存在するかもしれない奇特な読者のために、オンラインで公開されている和訳*1へのリンクを貼っておくことにする。翻訳の質をよく知らないが、ウィトゲンシュタインの文章はそれほどレトリカルではないので、だいたいの意味が取れれば議論の道筋は追える、と思う。


 第1節。アウグスティヌス『告白』が引用されている。これは「言葉の意味とはその指示対象である」という言語観のひとつの例示である。アウグスティヌスの説明によれば、人は、年長者の言葉(音声・文字)とその身振りが指し示すものを対応付けることによって、それが対象の名であることを知る。ところで、これが可能であるためには、その身振りが何を意味しているのかあらかじめ知っていなければならない(実際アウグスティヌスは身振りを「あらゆるひとびとにそなわった自然な言語」と述べている)。これは少し奇妙なことに思えるが、例えば生物には生まれながらに走性などがあるという事実の延長として理解できないこともない、と思う。人間は痛みを避けるように設計されており、年長者は自分の身振りが想定される効能を上げない場合に年少者を殴るので、年少者は自然と身振りに対する正しい反応を身に着ける、という状況を想像することはできる。ニューラルネットもそのくらい学習する。つまりこの議論でいえば人間の報酬関数が「あらゆるひとびとにそなわった自然な言語」ということになる。

 考えが脇道に逸れすぎた。ウィトゲンシュタインの想定する順路を逸脱してしまった気がする。というか先走りすぎてしまったようだ。これは第6節の内容に少し関係する。

 ウィトゲンシュタインがここで問題にしたいのは、言葉(音声)の意味として、その対象を想定する必要が必ずしもあるだろうか、ということだ。そうではないことを明らかにするために、ウィトゲンシュタインは極めてアルゴリズミックに買い物をする使いのたとえ話をする。彼はウィトゲンシュタインに「赤いリンゴ5つ」という記号の書かれた紙を渡される。彼がその紙を商人のところへ持っていくと、商人は「リンゴ」という記号のついている引き出しをあけ、次いで目録の中から「赤い」という語を探して……という具合に、これまた機械的に赤いリンゴ5つを使いに渡す。このたとえ話において、ウィトゲンシュタインは、登場人物がそのように「ふるまうことができる」ことを仮定している。それがなぜ可能であるかは問題にしていない。そしてそのようにふるまうことができるという仮定の下では、「5つ」や「赤い」という語の意味(これらはともにその「指示対象」がなんであるか判然としない語である)はまったく問題になっていなかっただろう、というのが、ウィトゲンシュタインの主張するところである。という意味では、いま初めて腹落ちしたが、このたとえ話は一種の「強調」に過ぎない。使いと商人が極めて機械的にふるまうという設定は、この話の本質になんら関係していない。実際、一般に人は買い物にさいして、「5つ」や「赤い」やあるいは「リンゴ」が何を意味しているかほとんど意識していないのである。それでもなおわれわれは「赤いリンゴ5つ」を買って帰ることができる、ということが問題なのである。


 第2節まで読む予定だったが、思いのほか疲れてしまった。が、思っていた以上に楽しかった。明日は早起きして、労働開始前に読む時間を取りたい。と意気込んだせいで昨夜は入眠に失敗してしまったのだけれど。