Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(3)

 どうも今日は一日中体調が悪かった。全身の神経がひりついている感じ。それはさておき第3節。

 前節では、一つの小さな言語が提示され、これを「完全で原初的な言語」と考えてみよう、という提言で終わっていた。だが、ここで注意しておかねばならないことがある。われわれが本来考えたいのは、われわれが普段使いしているほうの言語についてなのであって、前節で提示された言語についてではない。したがって、この小言語を例に挙げての考察に意味があるのは、この小言語とわれわれの自然言語とのあいだにある種の連続性が成り立っている場合のみであるように思われる。ウィトゲンシュタイン自身、以下のように書いている。

  アウグスティヌスの記述しているのは、意思疎通の一つのシステムである、と言うことができよう。ただ、われわれが言語と呼んでいるもののすべてが、このシステムであるわけではない。そして、このことをわれわれは、「この表現は適切であるか、適切でないか」という問いの生ずるきわめて多くの場合に、強調しなくてはならない。そのとき、答えは、「しかり、適切である。しかし、この狭く限られた領域についてだけ適切なのであって、あなたが表現していると称する全体についてではない。」ということである。

 相変わらず体調が悪く、まともにものを考えられる状態にはない。続きは明日にする。


 明日と書いたが不調が続いたため2日後になってしまった。

 先に「この小言語を例に挙げての考察に意味があるのは、この小言語とわれわれの自然言語とのあいだにある種の連続性が成り立っている場合のみであるように思われる」などと書いたが、ある程度元気になった頭で考えてみると、これはウィトゲンシュタインの考えとはおそらく異なる。が、このことを論じるためにはさらに先を読み進める必要があるだろう。

 第3節と続く第4節で述べられていることをさしあたりまとめてしまうと、「アウグスティヌスの言語観はあまりに単純であるが、しかし領域を限定することによって正すことができる。このように、説明(表現)は特定の領域でのみ妥当する場合がある、ということをつねに強調せねばならない」という感じになるだろうか。こう書いてみると当たり前のことを述べているだけのように思える。なにか見落としがあるのだろうか。どうもこの節の位置づけをうまく理解できていない感覚はある、ので後で誤解が明らかになるかもしれない。とりあえず先へ進もう。


 そういえば、第1回で書いた「読書筋」の話題にブログで言及してくれている人がいた。ちょっと嬉しかったので補足しておくと、「書いてあることを書いてあるままに読む」というのは、突き詰めれば、そこに書かれている文字列が有意味であるということを前提したうえで、それが成立する諸条件を探求することである。似たようなことを以前ここ*1に書いている。