Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(6)

 いまさらだが1節ずつ読んでいく方式だとその都度意識が寸断され議論の全体像を追いづらくなってしまう。この辺で一度流れを整理しておくことにする。

 まずアウグスティヌス的な言語観が提示される。この言語観においては、言語とは意思疎通の一つのシステムであり、語の意味はその指示対象によって与えられ、話者はそれらの語を並べることによって意思を表現する。この言語観はウィトゲンシュタインに言わせれば「あまりにも単純な言語のとらえかた」ではあるが、人間の言語にたいする原初的な観念のうちにいまだに安住している。そこで(ウィトゲンシュタインは自分の意図を明示していないのでこれは想像だが)この言語観と対決するために、アウグスティヌス的言語観が成立するような言語のサブセット(第2節の言語)を提示する。これは、われわれの言語のひとつの原初的形態とみなすことができ、とくに子供が言葉を学ぶときには、このような形態が現れるという。

 ――ちょっと混乱してきた。第2節の言語は、アウグスティヌスの記述に当てはまるものとして導入されているが、しかし第2節には「「石板」が石板を指示している」とは書かれていない。「石板」はBに石板をもっていかせるという機能を果たすということだけが書かれている。という意味では、アウグスティヌスの言語観を反映した言語ではない、気がする。――ああ、理解できたかもしれない。つまりこれは、アウグスティヌスの記述が説明として間違いではないような言語の例なのだ。もしアウグスティヌスの記述を「反映」したような言語が存在するとすれば、「「石板」が石板を指示している」という表現に対応する《事実》が存在せねばならない。だがわれわれに《事実》そのものなど見ることはできず、あくまで観察された事態に対する「説明」があり、その説明が妥当するかしないかという(人間的)判断があるのに過ぎないのである。まとめるとこうなる。第2節の言語は、(外から見る限り)しかじかの機能を持っている。こうした機能が実現されている背景として、語と対象の対応が存在するというアウグスティヌスの説明は、間違ったものではない。そういう言語として第2節の言語が用意されているのである。――うーん、なんか間違っているような気もする?

 第5,6節では、第2節の言語を子供が学ぶときのことが考察される。第2節の言語がそこで用いられている全言語であるような社会を考える(そのような社会を想像することはできる)。そこでは、第2節の言語を「説明」することはできないから、子供たちは(そのような活動を行い、その際そのような語を用い、そのようにして他人の言葉に反応するよう)「訓練」されることになる。訓練にはさまざまな仕方がありうるが、ひとつは、アウグスティヌスの記述にあるような、対象を「名ざす」ことによって語と対象の間に連想的結びつきを形成するという方法であり、これをウィトゲンシュタインは「直示的教示」と呼んでいる。アウグスティヌス的には、この連想的結びつきが語の「意味」ということになる。ところで、第2節の言語において叫び「石板!」のはたすべき役割は、助手Bが建築家Aに石板を手渡すという事態を生じさせることであった。この実現のためには、単に「石板」と石板の間に連想的結びつきを形成するだけでは不十分であり、さらに別の訓練を要することは明らかだろう。また裏を返せば、そうした連想を持たない者であっても、その叫びにたいしてしかじかのふるまいをする者は、その叫びを「理解」しているといえるのではないか(彼にとっては「石板!」はわれわれの言語における「石板を持ってこい」に相当するかもしれない)。こうした考察が明らかにするのは、語と対象の対応という観念は、第2節のような単純な例であっても、言語の働きをうまく説明しない、ということである。と思う。少なくとも第2節の言語を彼が理解したというためには、実際にその叫びに応じて材料をもっていくということができなければならない。それは「心の中に像が浮かぶ」だけでは不可能である。


 さて、続く第7節。

 第2節の言語を実際に用いるとき、一方の側は語を叫び、他方はその語に従って行為する。しかし、言語の教育に際しては、次のような過程が見られるであろう。教わる者が対象を名ざすということ、すなわち、教師が石を指し示すなら、〔それを名ざす〕語を発音するということである。――さらに、この場合、教師があらかじめ言った語を、そのまま生徒があとから発音するといった、もっと簡単な練習もあることだろう――この双方ともに言語に似た出来事である。

 似た出来事である、というのはつまり、これらが語の目的であるような場合も考えられる、ということであろうと思う。

 われわれはまた、第2節における語の慣用の全過程を、子供がそれを介して自分の母国語を学びとるゲームの一つだ、と考えることができよう。わたくしは、こうしたゲームを「言語ゲーム」と呼び、ある原初的な言語をしばしば言語ゲームとして語ることにする。

 自分の母国語というのは第2節の言語ではなく、われわれが普段使いしている言語のことである。ここではじめて有名な「言語ゲーム」が登場するが、この時点ではこの用語はあくまで、子供が言葉を学ぶときに用いる言語の原初的適用法(第5節)を指している。

 すると、石を名ざしたり、あらかじめ言われた語をあとから発音するような過程もまた、言語ゲームと呼ぶことができるだろう。

 第2節の言語を学ぶうえでは、これらもまた「言語ゲーム」でありうるということを言っている。つまり「言語」と「言語ゲーム」の関係はいくらでもスライドさせうるのであって、逆方向に向かえば、われわれの言語全体もまた「言語ゲーム」と呼ばれうるかもしれない、ということがここで示唆されている。

わたくしはまた、言語と言語の織り込まれた諸活動との総体をも言語ゲームと呼ぶだろう。

  つまり身振りや手振り、マナー、突き詰めれば、われわれの生活の全体が、言語ゲームに含まれる。