Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

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 自由とは何かという問いは途方もなく難しいが、視点を変えて、人が不自由を感ずるのはどのような場合かを考えてみると、こちらについては比較的簡単に結論を出すことができて、それは欲求が抑圧されている場合であると思う。とくに、叶えられて然るべきと思われるような望みがなんらかの理由で妨げられているときに、人は不自由を感じるのではないだろうか。

 思えば、自由の敵はいつだって他の人間である。たとえば重力はわれわれを地表に縛り付けており、重力を無視できるようなれば人間はより自由になるに違いないのだが、それをもって重力の存在を自由に対する抑圧だと主張する人間は少ない。だが、重力を無視する技術が開発されたとして、そこで誰かがその技術を不当に禁止したとしたら、人々は不自由を感じはじめるのではないだろうか。この意味で、自由への欲求とは(とくに制度に由来する)不平等に対する憤りである、ということができるかもしれない。(ある種の)自由とは実のところ平等のことを指していたのである。

 可能であるはずのことが禁じられている、という事実を認識しているから、そこに不自由感が伴うのである。そしてそれが可能であることを最も雄弁に語るのは、自分と同じ他の人間がそれをやっているという事実である。したがって、少なくとも社会的な文脈においては、自由とは単純にしたいことをすることではなく、アイツにやってよいことは俺にも許されるべきだという思想のことである、といえる。アイツは別の時代の人物かもしれないし、異性や外国人かもしれない。

 社会的な自由がおおむね平等の概念に等しいということは、裏を返せば、平等が担保されている限り、「やってもいいことリスト」が縮小されたとしてもあまり不自由感は出てこないのではないか、ということになる。もちろん過去の自分たちも「アイツ」であるから、禁止された直後は不満も出るだろうが、それを忘れてしまったとしたら。われわれはたとえば「好きな色の服を着られる」ことを真の自由だと感じ、それに満足して生きていくかもしれない。

 ところで、「やってもいいことリスト」が小さくてかつ「自由」な社会では何が起こるかというと、みんなが自分を「病気」だと思うようになる。それは人間にはあまりにサイズの小さい服なのだが、人々はそれをフリーサイズだと思っているから、自分が異常な肥満体型なのだと認識するのだ。

 とかとか。