Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(10)

 今回はまとめて第11~14節。これらの節では、前回も引用したが、以下の主張を補強するためのいくつかの例え話が語られる。

 「言語に含まれる一つ一つの語は何かを表記している」とわれわれが言うとき、このことによって、さしあたりまったく何ごとも言われていないのである。

  さまざまな語を見渡してある側面にだけ注目すれば、たしかに「語は何かを表記している」と言えないこともない。だがこの「表記している」という共通項は、いわば自明な共通項であり、しかもこの共通性は単なる表現上の一致なのであって、それぞれの語の機能を特徴づけるようなものではないのである。

 それは、ちょうど機関車の運転席をのぞきこむようなものである。そこにはいろいろな取っ手があるが、そのどれもが多かれ少なかれ同じように見える。(それらはすべて手でつかむものなのだから、そう見えるのは当然とも考えられる。)しかし、あるものはクランクの取っ手で、連続的に位置を変えることができるし(それは通風弁の開閉を制御する)、あるものは切替スイッチの取っ手であって、二つしか作用する位置をもたず、スイッチが入っているか切れているかのいずれである。またあるものは制御棹の握りで、強く引けば引くほどブレーキが強くきくのだし、また別のものはポンプの取っ手で、往復運動させるときだけ作動する、といったぐあいである。

 こうした例えからも伝わってくるように、ウィトゲンシュタインは言語を神秘的・観念的なものであるとは考えず、むしろ眼前で作動する機械であるかのように考察する。それは、摩耗もすれば誤動作もする、真に機械らしい機械なのである。

 「表記する」という表現のもつ特権性を失墜させること。それが、語の数ある機能のうちのひとつに過ぎないことを明らかにすること。が、当面の間のウィトゲンシュタインの目的であるように思われる。語の意味がその表記対象によって尽きているのであれば、直示的教示は子供に言葉を教える十全な手段であるだろう。しかし語「石板」と石板との間に連想を形成してやるだけでは、子供は適切にふるまうことはできない。「いやいや、子供は確かに「石板」の意味は知っている。ただ正しいふるまい方が分からないだけなのだよ」そう言いたければそう言ってもよい。しかし、そうした表現は、さしあたりまったく何ごとも明らかにしないのである。

 ところで、慣用には完全に習熟していながら、その「意味」は知らない、という状況はありうるだろうか?「表記する」「意味する」という語をあくまでその慣用において考えるならば、そういうことはありえない。しかし、これらの表現が、言語において、慣用を超えた特権的領域を占めているのであれば、話は変わってくるかもしれない。ここまでの議論で明らかになったように、そうした特権性は、言語の働きについて語る上では、たんに無用のものである。だが無用であるからといって存在しないということにはならないのではないか、とも言いたくなる。チェスの駒に被せた帽子は、チェスのルールに一切関係しないが、それでもなお駒は帽子を被っているのである。この問題についてはたぶん、私的言語批判の箇所で本格的に立ち入ることになる。はず。