Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(11)


 僕は興味のないことをするのがたぶん普通の人よりも苦手だが、その苦手さをより詳細に述べるなら、興味のないことに対する徹底的な自発性の欠如ということになるだろう。自分はわりと器用な人間なので、興味のないことであっても一定の範囲内であれば反射的にこなすことができる。だがそこに「意識を込める」ということが全然できない。最近は多少ましだが、少なくとも昔はひどかった。普通の人だったら「興味はないけどやらねばならないのなら一応の準備をしておくか」と考えを練るところで、僕はそれが意識の一角を占めることすら拒否し、無視して、衝突回避が不可能になってはじめて反射的に受け身をとりはじめるというありさまだった。そのためにいろいろな場所で僕は完全な無能になった。いったいアイツは何を考えているのだろうと周りからは思われていたかもしれないが、実のところ何も考えることができていなかったのである。


 反省はこの辺にして第15節。

 最も直接的には、「表記する」という語は、おそらく、表記される対象に印がついている場合に用いられるのであろう。Aが建築の際に利用する道具に何か記号がついている、と仮定しよう。Aが助手にそのような記号を示すと、助手はその記号のついている道具をもってくる。
 このようにして、あるいは多少なりともこれに似たしかたで、一つの名が一つのものを表記し、一つの名が一つのものに与えられる。――われわれが哲学するとき、「何かに名をつけるということは、一つのものに一つのレッテルを貼るようなものだ」と自分自身に言いきかせているなら、それがしばしば有用であることが証明されよう。

  この節がここに置かれている意味がしっくりこないが、とりあえずこれは「表記する」という語の慣用を記述していると理解すればよいだろうか。しかし例えば★マークが石板に貼ってあったとして「★が石板を表記している」と言いたい気持ちになるだろうか。少なくとも個人的には、それを「表記」とはあまり呼びたくない感覚があるけれども、まあ、★を見せることが「石板!」と同じ機能を果たすのだとすれば、「石板」が石板を表記しているのだというのと同じくらいには(第2節の言語の「石板!」が石板を表記しているとは僕にはやはり感じられないが)★は石板を表記しているといってもいいかもしれない。つまり(?)「★が貼られた石板」のイメージは、「表記する」という表現のひとつの映像として機能しうる、ということだ。その意味で「有用」なんだと思う。違うかもしれない。

 続く第16節では★マークの代わりに色彩標本の場合が考察される。★を見せる代わりにある色彩標本を見せて「これを持ってこい」という場合、標本はどういう働きをしているだろうか、という問題だ。★は石板を「表記」していた。色彩標本はある色の建材を「表記」しているのだろうか?どうも建材の色は「レッテル」とは趣を異にしている雰囲気がある(別に誰かが貼り付けたものではないのだから)。とすると、色彩標本は言語とは別種の存在ということになるのだろうか?ウィトゲンシュタインは「どう考えても構わない」と答える。というのも、たとえば「〈das〉という語を発音してみよ」というときの「〈das〉」は文章の一部のように思えるが、同時に、発音のための音声標本としても機能しているのであり、これはつまり、言語と標本の境界は曖昧であることを意味するからだ。「〈das〉」が言語の一部であるのと同じ程度には、標本は言語の一部なのであり、逆もまたしかり。そのうえで彼は、標本を言語の一機能とみなす考えかたの有用性を指摘している。ある意味では★も標本なのだ。見せられた★と同じものを持ってこようとすると、それが貼り付けられている石板も一緒に持ってこざるをえないだけで。

 これらの節の目的は、おそらく、「表記する」という語のはたらきに具体的な描像を与え、その一見抽象的な機能が、レッテルや標本という手に触れられるものたちの延長上にあることを示すことにある。と、思っている。言語だってひとつの事実なのだ。

 つねにつきまとう自分がとんでもない誤解をし続けているのではないかという不安。

 ところで、建築家Aが示した★と石板に貼ってある★が「同じ」であるとはいったいどういうことなのか、標本が標本であるとはいったいどういうことなのか。


 だいぶ冬が近づいてきた。身体が冬眠を求めている。眠たい。

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