Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(13)

 鬼界彰夫訳『哲学探究』が届いたので目を通していた。日本語がこなれていて全集の文体に慣れ親しんだ者としては違和感があるけれど(自分の中ではあれがウィトゲンシュタインの「肉声」になってしまっている)、何箇所か比較してみたところでは全集よりも上手く(そして十分正確に)訳されているようだったので、今後はこちらをベースに読み進めていこうと思う。たとえば以下の箇所。

 ところで、「石板」という語の慣用の記述を縮めて言うことができるとすれば、それは、その語がかかる対象を表記しているとひとが言っている、ということになろう。そのような言い方をするようになるのは、たとえば、「石板」という語はわれわれが実際に「台石」と呼んでいる形の石材を指しているのだ、と考えるような誤解を取り除くことが問題になるときぐらいのものである。――ところが、こうした指示「関係」のありよう、すなわち、それ以外の場合におけるこの語の慣用は、すでに知られている。

 なるほど確かに、「板」という語の使い方の記述を短縮して、この語はこの対象を表す、という言うことにすることはできる。例えば、「板」という言葉が実際には「ブロック」と呼ばれている石材の形を指すのだという誤解を解くことだけが問題で、この「指す」ということがどのようなことなのか、つまりそれらの言葉の使い方の他の部分はよく知られている場合、人はこうするだろう。

  前者が全集訳、後者が鬼界訳である。全集訳は何を言っているのか理解するのがとてもむつかしいが、鬼界訳のほうはわりとすんなり頭に入ってくる。

 巧みに訳されているということは、それだけ原文と訳文の対応関係が直接的でなくなっているということでもある。原文では同じ語が使われているところで異なる日本語表現が訳として与えられている場合がしばしばあり、その点、どちらかといえば一貫した対応付けがなされている(ように見える)全集訳とは対照的である。このような違いをどのように評価すべきかしばらく悩んだが、原文を参照することはいつでもできるわけで、それならとりあえず読みやすいほうを読んでいこうというところに落ち着いた。気になったら原文にあたればよいのだ。

 思えば翻訳とはよくわからない営みである。「意味を保持したまま記述言語を変更する」なんてことがどうすればできるのか。だから人文学においては原テキストが重視されるわけだけれども、しかしドイツ語世界に生まれたわけではない僕がドイツ語を頑張って読んだところで、ドイツ語母語話者がドイツ語を読むようにはいかないだろう。僕の言語世界は日本語に依存しており、この影響を取り除くことはできない。だがこの考察をさらに徹底すると、ウィトゲンシュタインではない人間がウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか、とか、さらに言えば、ある時点のウィトゲンシュタインが別時点のウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか、という問いに突き当たることになる。日本語世界とドイツ語世界の差異と同じものが、ウィトゲンシュタイン語世界とハイデガー語世界にもあるからだ。つまりこの意味で、文章を読むということはまさに翻訳でもあるのである。言葉に意味があるということは。なんだこの底の浅い翻訳論は。

 ああそうだ、鬼界訳は全集とは異なり探究の第4版を底本としているとのことである。これはP・M・Sハッカーおよびヨアヒム・シュルテの編集によるもので、最新の遺稿研究を取り入れ、原文に変更を加えたり一部の節を並び替えたりしたものらしい。よりウィトゲンシュタインの意図したものに近づいているとのことだが、彼自身が読めば「違う!違う!」とか言いそうなものである。いやまあ「その通り!」と言うかもしれないけど。


 前置きが長くなってしまったが、第19節。

ある言語を想像するとは、ある生活の形を想像することなのだ。

 たとえば第2節の言語の話者たちはひたすら建築をしているのだろう。それが彼らの生活のすべてである。と書くと彼らは昆虫かなにかであるように思えてくる(実はそうなのかもしれない)。ところで、ある昆虫が音声を使って意思伝達をしていたとして、それは「言語」なのだろうか。第2節の言語を言語だというのなら、それもまた言語だということになりそうなものである。彼らの言語には「文」や「語」の区別はあるだろうか?

 第19節の考察は、第2節の言語における「板!」とわれわれの言語における(「私に板を持ってきてくれ!」の省略としての)「板!」の比較からはじまる。これらは同じものではない。なぜなら、第2節の言語の中には「私に板を持ってきてくれ!」という文は存在しないからである。しかし途中から論点がスライドしていて、「私に板を持ってきてくれ!」とその省略としての「板!」の話になっている。この二つが「同じことを意味している」とはどういうことか?という問題。第2節の言語の話題はどこかへ行ってしまった。

 もし「板!」が「私に板を持ってきてくれ!」と同じことを意味しているのであるとすれば、「「板!」と言うとき、「私に板を持ってきてくれ!」ということを意味しているのだ」と言う代わりに「「板!」と言うとき、「板!」ということを意味しているのだ」と言ってもよいはずである(これはよい比喩だと思う)。しかしこれは奇妙なことに感じられる。「板!」は「私に板を持ってきてくれ!」という文が前提としてあってはじめて意味を持つように思われるからだ。しかしそれは結局どういうことなのか、とウィトゲンシュタインは問い続ける。「板!」が「私に板を持ってきてくれ!」の省略であるということは、つねに心の中で「これは「私に板を持ってきてくれ!」の省略である」と念じているからなのだろうか(いや、そんなことはないはずである)。

 この議論は第20節に続くのだが、疲れてしまったので今日はここまで。