Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(14)

 自分の完璧主義と付き合っていくうえで重要なのは、完全性への拘りを薄めようと努力することではなく、むしろ、それぞれの行為が「一個の作品」であるという認識を捨てることなのではないかと思った。もっとこう、歯磨きするような気持ちで。

 ここのところ労働が忙しくて――といっても滅茶苦茶大変というほどでもなく、終業後に哲学書を読むのはちょっとしんどいかなというくらいなんだけど――あまり『探究』を読み進められずにいた。代わりに、だいぶ前に買って放置していた『現代詩の鑑賞101』をのんびり読んで、なるほど詩はこういう風に読むのねと少し勘所を理解したような気になってみたり、庄司薫『赤ずきんちゃん気をつけて』を読んで昔のエリート青年たちに思いを馳せてみたり。だからどうしたってわけでもないのだけれど。

 なにか書きたいことがあったはずなのだが、書いているうちに置き場所がなくなってしまった。まあいいや、とにかく第20節を読んでいこう。

 第19,20節は文と語の関係についての議論なのだが、はたしてそれらはそんなに本質的な概念・区分けだろうか、とまず僕は思ったりする。それらは人間が言語を理解するために便宜的に作った分類なのであって、その理解は特定の(おそらく日常的な)機能を提供するためのものなのだから、ウィトゲンシュタインが試みているような言語活動の根本的観察においては、むしろ邪魔になるようなものなのではないか、とか。しかしまあこうしてページを割いている以上、彼はなにかしら議論の必要を感じたということである。それはいったい何なのだろう。

 文と語について少し考えてみると、そもそもわれわれが口にすることができるのはすべて文である、と言いたくなってくる。われわれは語そのものを発することはできない。たとえば「この物体を指す語は何か」「リンゴ」というやり取りにおいて、「リンゴ」は語ではなく「それは『リンゴ』です」という文(の縮退したもの)である。語そのものを口にするとき、それは機能を持たない音である。あるいは、何らかの機能を持つかぎり、それは文である。もちろん、これは僕がそのように文と語を定義しているということを意味するのに過ぎない。そして僕がそのように考えるのは「文が語へと分節化される」という言語観を持っているからである。これはウィトゲンシュタインの感覚ともそれほど隔たりはないと思っているが、どうだろうか。

 少しずつウィトゲンシュタインの意図が飲み込めてきたような気がする。たぶん、「語が集まって文をなす」という言語観に異議を唱えているのだ。ある固定された意味を持つ語が先に存在して、それの組み合わせが文の機能を決定する、という考え方では、「私に板を持ってきてくれ!」と「板!」が同じ意味を持つという事態をうまく説明できない。むしろ、それが使用される文脈が文の機能を決定し、それが語へと分解されていると考えるほうが自然である。つまり、文と語ではどちらかと言えば語のほうが付随的な概念なのであって、このことを説明するために、まず「ある文が5つの語からなる」ということはそもそもどういうことかについて詳細に検討しているのだ。

 ある文が5つの語からなると言えるのは、その言語における他の文との対比においてである、とまずウィトゲンシュタインはいう。さらに、ここでいう「対比」とは、(そうした他の文を思い浮かべることなどではなく)その言語においてそれらの文が意味を持っているという事実を意味している、と話を続ける。第20節までの議論において彼が排除しようとしてきたのは、文の意味はなんらかの心的過程に対応しているという考えであり、それゆえある語がまさに語であるという事態がその人の「理解」に依存していると言ってしまうと、彼の意図は破綻してしまうのである。それを踏まえて「語」という観念が持つ「要素的存在っぽさ」を批判しておこうというのが、第19、20節の役割なのだと思う。

 寒空の下、カフェのテラス席でフリック入力していたら、指がかじかんでゆとりのない文章になってしまった。話の筋も二転三転している気がするし、うーむ。しかし天気はよい。安田講堂前クスノキのベンチを思い出す。