Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(15)

 何かを「自覚的に」知るということの意味は、それを可能性の空間のなかに位置付けることである。それゆえ、自覚することは人に選択を迫る。理由と意志を持つことを要求する。自由と引き換えの重責を避けるために、人類は無自覚な知の形式を維持・発展させてきた。それは言語の根源的フラットさ対する防壁であり、知的エネルギーの虚空への漏出を防ぐ方策であった。


 第21節。

 Aの質問に対してBが山積みになった板あるいはブロックの数を、あるいは、しかじかの場所にある石材の色と形を報告するという言語ゲームを想像してほしい。――こうした報告が「五 板」という形をしていることもあるだろう。さてこの場合「五 板」という報告あるいは陳述と「五 板!」という命令の違いとは何か?――そう、これらの言葉が言語ゲームの中で果たしている役割なのだ。

 この説の内容は上記の表現に集約されていて、残りの文章はある誤解を避けるための補足である、と言えると思う。それは、「言語ゲームにおける役割」と、その文が発されるときの抑揚・発声・文体などとを同一視するという誤解である。たしかに「五 板」と「五 板!」はその発話のされ方が異なるかもしれない。しかし異ならない場合も想定できるのである。もしここで、発話のされ方が意味を決定するのだと言ってしまうと、「!」に(命令という)意味が”宿っている”ということになってしまう。それはウィトゲンシュタインの意図しているものとは正反対の描像である。

 続く第22節は、フレーゲの言語観に対する批判。ここでいうフレーゲの言語観とは、陳述(┣ p )は命題 p と陳述記号 ┣ に分解できるという考えのことである(鬼界先生の注釈より)。ある命題(想定)が、肯定文や否定文、命令文といった様々な文脈において用いられることを説明するには、命題すなわち「意味」と、それを何らかの形で使用するという「行為」(例えば「陳述」)とが分かれていなければならないように思える。で、そういう「行為」を離れた「意味」をどのように構成するかということを突き詰めた結果として、かつてのウィトゲンシュタインは論理空間の概念を発明したのであった。

 ところで、言語ゲームの観点からすると、命題 p は文ではない(言語ゲームの中で特定の働きを持っていない)。これは僕が前回「語」そのものを発することはできないと書いたのと同じ話である。したがって、「(語としての)『リンゴ』が陳述されている」が文ではない(あるいは別の文になってしまう)のと同じ意味で ┣ p は文の体をなしていない。かといって p を命題ではなく文として理解するのであれば、もはや ┣ は文字通り余計なものということになる。また、その余計さはわきに置いておくとしても、次のような問題がある。フレーゲは陳述文を陳述記号と命題とに分解したが、同じように、質問と肯定(「雨が降っているか? はい」)に分解したってよいはずである。そうすると、あらゆる陳述には質問が含まれているということになるが、それはおかしな話ではないだろうか?

 もちろん陳述記号を疑問符との対比で使ったり、陳述を虚構や想定と区別するために使うのは正当なことである。ただ、陳述は考量と主張(真理値の付与など)の二つの行為から成り立っていて、我々は楽譜を見て歌うように文の記号に従ってそれら二つの行為を実行するのだ、と考えることだけが誤りなのだ。確かに書かれた文を大声や小声で読むことは、楽譜に従って歌うことに似ている。だが読まれた文を「意味する」(考える)ことはそうではない。

 われわれは単にメロディを歌うのであって、「メロディそのもの」をまず想定したうえで、それを口から発声している、というわけではない。

 最後に、フレーゲ流の陳述記号 ┣ の、言語ゲーム上の駒としての役割が示される。

フレーゲの陳述記号は文の始まりを強調するものである。

 フレーゲなど論理学者らが行ったのは、要するに、言語のモデル化である。ある仕方で要素を切り出し、その関係を記述することで、特定の方角から見た場合の「見通しのよさ」が実現される。それはそれで有用なことであり、文を「意味」「行為」に分解することで見えてくる世界はあるのだろう。しかしそれはあくまで、ある目的に沿っての抽象化であって、言語の「実体」を明らかにしたものではまったくない。われわれの言語生活が、言語ゲームが営まれるにあたっては、余計な概念なのである(もちろん言語ゲームの内側では意味がある)。

 言語ゲームにおける語の働きをつぶさに見てゆくことによって、その語がゲームの外側に対して責任を負っているという考えを取り除いていく。つまるところこれは、言語の脱魔術化の過程なのである。とか。


 2020/12/29 追記。探究第4版においては、第22節の末尾にウィトゲンシュタインによる補足的テキストが挿入されている。内容は以下の通り。

 特定のファイティングポーズをとっているボクサーを描いた絵を想像してみよう。さてこの絵は、どのように立ち、どのような姿勢を保つべきかを誰かに伝えるためにも使えるし、ある特定の人物がどこそこでどのように立っていたかを伝えるためにも使えるし、同様の様々なことを伝えるのに使える。この絵を(化学の語り方をまねて)命題基と呼ぶことができるだろう。おそらくフレーゲも「想定」についてこのように考えたのだろう。

 この例における絵は、視覚像であるだけに、「意味そのもの」と言ってよいのではないか?と一瞬思ってしまった。しかしよく考えてみると、「語そのもの」が不可能である(文になってしまう)のと同じ意味で「絵そのもの」も不可能なのである。というのも、われわれがこの絵に触れるのはつねにある文脈において(壁にかけてある絵を見る、人から提示される、などなど)なのであって、そうした文脈を抜きにして絵それ自体に直接触れるということはできないからだ。つまりその絵を抜き身の「命題性」とみなすことはできず、結局、その絵に触れるということはつねに一つの経験(文)である。ということになる。


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