Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(17)

 ここのところ隔週更新になっている。もう少しペースを上げていきたいところである。『探究』を読むという以外にも、今年は、自分の思想を体系的にまとめたり、ちょっと長めのお話を書いたり、といったことにも挑戦してみたいなと考えており、まあ考えているだけで特に計画も何もないのだが、ともかく言語野のギアをあと数段上げて2021年をやっていきたいなと、これは少々遅刻気味の新年決意表明である。業務上でもたぶんいくつか論文を書く必要がありそうだし。こちらについては計画がいくつかあり、しかしどれもうまくいっていない。自然(広義)は厳しい。

 そういえば昨日は机を自作してみた。といっても研磨塗装済みのでかい木の板(30x600x1200mm)を買って、ドリルでネジ穴をあけて、別で買った脚を取り付けたというそれだけなんだけど。シンプルでなかなか趣もよく、たぶん買うより少し安い。ただ初期装備の塗装に耐水性がないっぽかったので(布巾で拭いたら色が移ってしまった)、近いうちに水性ウレタンニスなるものを塗布する予定である。ニスを刷毛で塗って乾かしてサンドペーパーで磨いてと何度か繰り返さねばならない。とまあ普通に机を買うより面倒な作業は多いが、在りし日の工作少年に戻った心地がして楽しい。東京で労働(しかも計算機に向かうばかり)していると、自我が直接世界に作用するあの感覚を忘れてしまうのだ(日々計算機の低レイヤと格闘している友人が聞くと怪訝な顔をするかもしれない)。いつか山小屋とか建ててみたいよね。問題は下水処理かな。


 第26、27節。

 言語を習得するとは、いろんな対象に名をつけてゆくことだと我々は考える。具体的に言うなら、人や、形や、痛みや、気分や、数に名を与えてゆく過程だと。すでに述べたように――名づけるとは物に名札を貼り付けるのに似たことである。この過程を語の使用のための準備、と呼ぶことはできる。だが、それは何のための準備なのか?

 物――これは物体に限らず、上記の引用にあるような形や気分、もっと言えば動作とか状態とかも含まれると思う――に名が与えられることによって、その物を文のなかで使用できるようになる、すなわち、名づけとはその物を言語において使用するための準備なのだ、という言語観について。「だが、それは何のための準備なのか?」

 たとえば、いくつかの材料を用いて建築を行うという場面では、材料を区別するためにそれぞれに異なる名を与えるということがあるだろう。これはまさに建築のための準備である。だが建築をするという明確な目的がなかったとしたら、それらの名は何かのための準備でありうるのだろうか?

 名づけに際して、われわれはその名の使用目的をつねに想定しているというわけではない。だから名づけが言語の準備であるとすれば、それに先立って、それらの名を利用するその仕方、「ものについて語る」という行為の総体が、すでに何らかの意味で用意されていなければならない。だが、実際はそうではない。「語る」という行為はその全体を決定できるようなものではないし、また日々少しずつ変化してゆくものである。

だが現実に我々が文を使って行っているのは、この上なく多様な事柄なのだ。叫び声についてだけ、考えてみよう!その働きは実に多様なのだ。

    水!

    失せろ!

    ああ!

    助けて!

    いいね!

    違う!

 これでもまだ君は、これらの言葉を「対象の名」と呼びたいのか?

  なぜ「叫び声」なのだろうと少し考えたが、これはたぶん「ものについて語る」のひとつの形式の例である。名(日本語訳されると名っぽさが薄いけど、ドイツ語だと「(単語)!」という感じで名が叫ばれているという雰囲気なのだろう)が叫び声として発される場合に限定しても、その機能はさまざまである。こうした機能の全体が、名づけの時点で想定されていたとは考えづらい。

 鬼界先生の注釈によれば、この節の議論において念頭に置かれているのは、『論理哲学論考』の言語観である。論考においては、文は名の結合であり、言語で使用される語はすべて「ある対象の名」であるとされていた。言語は世界のモデルであり、世界内の対象と対応づく限りにおいて意味を持つ、という言語観。だが、上記の叫び声の例を見てもなお、すべての名は対象を名指していると言えるだろうか?とウィトゲンシュタインは自問しているのである。多分。うーん、でもそう言ってもべつに悪かないんじゃないかとも思うんだよな。

 頭がこんがらがってきた。名が言語の準備であるという言語観に対する批判と「対象の名」に対する批判とが同時並行して行われていて、議論が追いづらくなっている気がする。僕がうまく読めていないだけだろうか?

 ざっくりとまとめるとたぶん次のようになる。これらの節では(対象を名指す限りでの)名を基礎に置き、その結合として文の意味を定義する言語観――つまり論考の言語観――が批判されている。批判のポイントは(おそらく)2つ。ひとつは、名づけは単なる「準備」ではないということ。名づけの段階でその語り方がすべて想定されているわけではなく、あとから新しい語り方が生み出されることもあり、それによって名の意味合いが変化することもある(たとえば「いいね!」と叫ぶとき、われわれはもはや Twitter の影響を完全に逃れることはできない)。つまり、名が語りの基礎にあるのではなく、名と語りは相互に影響しあうものであるということ。もう一つは、それぞれの名は「対象の名」と呼ぶにはあまりに多様な使われ方をしているということである。要するに「名」という概念の持つある種の地盤っぽさを解体しているのである。ほんとうか?

 この節の内容をうまく理解できた気がしないのは、自分が、十分な深度まで論理哲学論考の世界観に潜ったことがないからかもしれない。

 で、結局「名」とは何だったのかということについて。第27節の末尾でウィトゲンシュタインが示唆するところによれば、「名を問う」「名を作る」といった言語ゲームの駒である。なんでも言語ゲーム。