Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(18)

 1月後半はずっと体調を崩していた。熱が出たので covid-19 を疑ったが、郵送 PCR 検査を受けてみると陰性で、病院で診てもらったところウイルス性の扁桃炎ぽいとのことだった(しかしどこから感染したのやら、ほとんど引きこもりの生活をしていたというのに)。一月末あたりは喉の痛みが本当に酷くて4時間おきにカロナールを飲みながら呻いていたのだが、そのときの苦痛を今思い出そうとしてもぼんやりとしか再現できないのは面白いことだと思う。痛かったという記号だけが残っている。感覚というのは単独で存在するものではなく、例えば「痛みに呻くほかない」というそうするほかなさの総体として立ち現れてくるものなのだ、たぶん。だから感覚から真に自由である人は(例えば悟りに至った人とか)痛みという記号を認識しつつ痛くないという状態にあることができるのに違いない。今の僕がそうであるのと同じように。


 28,29,30節。直示的定義の誤解可能性について。二個のナッツを指差しながら「これを2と呼ぶ」と説明するとき、この説明はさまざまに誤解されうる。被説明者は二個のナッツの組を「2」と呼ぶのだと考えるかもしれないし、あるいは、ナッツを指差す動作のことを……などなど。これは有限のサンプルを相手にする限り帰納法が決して誤謬の可能性を排除できないことに似ている。

 「このが2だ」と説明すれば誤解は排除できるのではないか?確かに「数」という言葉は定義される語「2」が言語の中のいかなる場所に置かれているかを決定する。しかしそのためには「数」という言葉の意味がすでに理解されていなければならず、そして「数」の意味の説明もまたさまざまに誤解されうるのである。とするとさらに別の言葉の意味を説明して……と延々説明の連鎖を繰り返すことになる。となると「言葉によって概念を説明することなどできない」と言いたくなるが、ウィトゲンシュタインは少し違う見解を持っているように見える。

「「最後の」説明など存在しない」と言わないように。それはちょうど、「この通りの一番端の家など存在しない、いつでももっと家を建て増すことができる」と言おうとするようなものだ。

 実際、われわれは概念をしばしば言葉で説明しているのである。問題は、どのような場合にこの種の説明が可能なのかということである。

 2を直示的に定義するときに「数」という言葉が必要かどうかは、それがなければ相手が定義を私の意図と違った具合に理解するかどうかにかかっている。そしてもちろんそれは、定義がなされる状況と定義が与えられる人間にかかっている。
 そして相手が説明をどのように「理解」しているかは、その人が説明された言葉をどのように使用するかによって示される。

 ところであらゆる状況・人間に対して機能するような完全な説明というのは可能だろうか?それが可能であるなら、それこそが真の直示的定義であり、他の定義はその省略形であるということになるだろう。が、そうした説明はおそらく存在しない。なぜなら誤解の可能性はまさに思弁的には無数に存在するからだ。

つまり次のように言えるだろう。ある言葉が言語の中でどのような役割を果たすのかがすでに明らかな場合、直示的定義はその言葉の使用――意味――を説明する。だから、もし私が、相手は色彩語を説明しようとしているのだと知っているなら、「これを「セピア」と呼ぶ」という直示的説明は、私がその言葉を理解するのを助けるだろう。――そして我々がこのように言えるのは、この「知っている」や「明らか」という言葉にあらゆる種類の問題が結びついているということを忘れない限りでのことだ。
 ものの名を尋ねることができるためには、人はすでに何かを知っていなければ(あるいは、できなければ)ならないのだ。しかし、何を知っていなければならないのか?