Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(19)

 労働において自分の関わるいくつかの案件が山場を迎えており、哲学書を読むような気分を維持できずにいた。現実的な問題を解くことにエネルギーを投入している間は、そうした「現実」を前提から支えている枠組みに対する懐疑の気持ちは弱まってしまう。かつての自分は、「現実」が目前に迫ってきてもなおその前提を受け入れることができずに社会適応上の問題を引き起こしていたけれど、最近の自分はどうも生きるのがうまくなってしまった。生存することを度外視した精神活動によってのみ達成できる学問的・芸術的・宗教的境地があることが知られており、二兆円の到来が必要とされている。そういえばウィトゲンシュタインはお金に困ったことがあるんだろうか?

 労働で頭を鈍らせるのは嫌なので、高橋『計算論』をちょっと読んでいた。Ackermann 関数が原始帰納的関数の範疇に収まらないことを自力で(まあ誘導には乗ったけど)証明できたのがうれしい。あとインタプリタが実現可能であることをちゃんと理解したり。要するに、帰納的関数であるような関数は、帰納的に構成されている以上、つねにデータとしても見ることができ(構成の仕方を自然数にエンコードできる)、かつそのデータを解釈するような関数が帰納的関数として構成できる、ということらしい。少し直観が育ってきた気がする。次は停止問題。


 それはさておき、第31,32,33節。31節では、「これがチェスのキングだよ」という説明が説明として機能するためには、被説明者は何を知っていなければならないか、ということが考察される。例えば、チェスのルールは既に知っているが、チェスの駒の実物を見たことはまだないような人に対しては、これは説明となるだろう。あるいは、チェスのルールは知らずとも、ある種のゲームについての理解があるならば、その人は「これがチェスのキングだよ」に対して、「それはどのように動くのですか?」などといった質問を返すことができる。逆に、ゲームに対する一切の知識のない人にとっては「これがチェスのキングだよ」はただ混乱を引き起こすだけだろう、すなわち、それを聞いて何らかの反応を返すことすらむつかしいだろう。「これが「チェスノキング」だよ」「それで?」。

 その名を用いてすでに何かをすることのできる者にとってのみ、ものの名を訊ねるということは意味を持つ、と言うことができる。

 『論理哲学論考』においては、直示的定義は、名と対象を結び付け、対象に意味を与えるという特別な意義を持っていた。ところがここでは、直示的定義は、その名を用いて何かをなすことのできる人にとってのみ意味を持つ。ここに大きな転換がある。(鬼界先生の註より)

 第32節はアウグスティヌス的言語観に対するウィトゲンシュタインの批判の総括である。

 だから、次のように言っても構わないと私には思われる。すなわち、アウグスティヌスは人間の言語習得というものを、あたかも子供が見知らぬ他国にやって来て、その国の言語がわからない状態でなされることであるかのように描写しているのだ、と。言い換えるなら、子供はすでに考えることができて、まだ話せないだけであるかのように、描写しているのだ、と。そしてここで言う「考える」とは、自分自身に話す、といったことを意味している。

 続く第33節では、ここまでの議論に対する再反論が検討される。

 だが、「直示的定義が理解できるためには、すでにある言語ゲームをマスターしていなければならない、と言うのは正しくない。必要なのはただ――当然のことだが――説明している人間が何を指しているのかを知ること、あるいは言い当てることなのだ。相手が指しているのが、例えば、対象の色なのか、形なのか、数なのか、……を知ることが必要なのだ」という反論が出されたらどうか?

 これはたぶん、次のような意味だ。たしかに、ゲームについて一切知らない人は「これがチェスのキングだよ」と説明されても途方に暮れるかもしれない。しかし、もし彼が、説明者が何を指して「チェスのキング」と述べているのかが分かるなら、その対象に「チェスノキング」というラベルを与えることはできるだろう。なるほど、こういう形・色をしている物体を「チェスノキング」と呼ぶのか、と。それがチェスというゲームに関係していることや、チェスとはいったい何なのかということは、おいおい知っていけばいいことである……。

 この再反論に対するウィトゲンシュタイン再々反論は、言ってしまえばこれまでの論法の繰り返しである。「形を指す」「色を指す」とはそもそもどんなことなのか、とウィトゲンシュタインは再考を促す。それはさまざまな事態でありうるだろう。輪郭を指でなぞるとか、色見本を持ってくるとか。だが、ただ単にそうした事態の集まりが「形を指す」「色を指す」に対応するというわけではない。

 形に注意を向けるということを我々は、あるときはそれをなぞることによって、あるときは色がはっきり見えないように目を細めることによって、その他様々なことによって行う。我々が「注意をこれやあれに向けている」間に、こうしたことや類似したことが起こっている、と私は言おう。しかし、「人が注意を形や色に向けている」と我々が言えるのは、こうしたことだけによるのではないのだ。それはチェスの一手というものが、ある駒が盤上でしかじかに移動するということの中だけにあるのではなく、――また、その動きにおいて指し手に生じる思考や感情の中にあるのでもなく、我々が「チェスの対局をする」とか「チェスの問題を解く」等々と呼ぶ状況の中に存在しているのと同じなのだ。

 チェスの一手が、チェスというゲームの総体の中に位置づけられることを必要とするように、「形や色に注意を向ける」という表現が意味をなすためには、人はある言語ゲームに習熟していなければならない。さらに、これは次節の内容に関係するかもしれないが、「形や色に注意を向ける」というゲームは、一度習得すればあらゆる場合に用いることができるようなものではなくて、例えば人の輪郭を指す場合、チェスの駒の形を指す場合で、それぞれ違った種類のゲームであるかもしれないようなものなのだ。というのも、人Aと人Bを識別する認知能力が、そのままチェスの駒の識別に使えるとは限らないのだから(これは画像認識を考えれば理解しやすいかもしれない)。したがって、結局、チェスの駒に「チェスノキング」という単なるラベルを与えるにあたっても、何らかの言語ゲームが先に存在していなければならないことになる。言い換えれば、何事も、純粋に名前から始まるということはない。名付けるためには言語ゲームが必要なのだ。「それ」を「それ」として世界から切り出している時点で、すでに何かが前提されているのである。


 疲れた。自分にとって哲学の本を読むことは精神の全身運動をするようなものである。あるいは、僕は哲学をする以外の方法では、精神の全身運動をすることができない。これが他の領域にも広げられたら。