Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(20)

 3月があまりに忙しかったため精神の調子を回復させるのに時間がかかってしまった。生きるために労働をしているというのにこれでは本末転倒である。

 気を取り直して第34節。

 それでも誰かが次のように言ったと仮定してほしい。「形に注意を向けるとき、私はいつも同じことをしている。輪郭を目で追いながら、……と感じているのだ。」そしてこの人が別の人に「これを「円」と呼ぶ」という直示的な説明を、それらの体験すべてを伴いながら行ったと仮定してほしい。――説明されるこの相手が、説明者が形を目で追うのを見たとしても、そして説明者が感じているのと同じことを感じたとしても、それでもなお説明を違ったように解釈するというのはありえないことなのか?私が言いたいのは、この人の「解釈」が、説明された言葉を次にどのように使うかによって、例えば、「円を指し示せ」と命令されたとき何を示すかによって決まる場合もあるということなのだ。――というのも「かくかくという意味で説明する」という表現にせよ「説明をかくかくに解釈する」という表現にせよ、それらが示しているのは、説明をしたり、説明を聞いたりすることに伴う何らかの過程ではないからだ。

 直示的定義が可能であるためにはそれより前に何らかの言語ゲームが用意されていなければならない、というのがこれまでの議論であった。説明は文脈に依存する。それならば、文脈を固定してやれば直示的定義は可能なのではないか。これが34節で提起されている問題である、と思う。「形に注意を向ける」ことに伴う特徴的な体験まで含めて被説明者に伝えることができるなら、誤解の余地のない語の定義が可能になるのではないかということである。

 「説明者が感じているのと同じことを感じ」るとはいったいどういうことなのだろうか。この表現が可能なのであれば、説明者が被説明者に「解釈」を伝えることも可能であるような気がする。が、ウィトゲンシュタインはそのようには主張していない。つまり「体験」と「解釈」の間に質的な差異を想定しているということで、まずはそれについて考える必要がある。というかたぶん、この差異こそが34節で強調しようとしているものである。

 ぱっと思いつくのは「体験の一致とは記述の上での一致である」という解釈である。「輪郭を目で追う」が体験の例として挙げられているが、この際、「輪郭」「目で追う」という表現の意味は問題になっていない。つまりこれらの語の解釈はすでに一致をみていると仮定している。

 あまりうまく説明できている気がしない。「記述の上での」と強調したのは、二人は別の人間であり、体験に伴う心身の状態など様々に異なるからだ。そもそも《感じ》を比較することはできない。一致したり異なったりするのは、《体験そのもの》ではなく、体験の記述である。

 まとめると多分こういうことである。「体験」は語られるものであり、その語りを支えているのが「解釈」である。二人の間の解釈の一致は、根源的には確かめられるものではないが、実際的には「説明された言葉を次にどのように使うか」など、外的な振る舞いによって決定されるものである。さて、体験記述に用いる語については解釈の一致をみている二人の人間がいる。ここで片方がもう片方に体験を交えて直示的定義を行ったとして、「解釈」をただ一つに決定することは可能だろうか?

 ウィトゲンシュタインの回答は否定的である。「というのも「かくかくという意味で説明する」という表現にせよ「説明をかくかくに解釈する」という表現にせよ、それらが示しているのは、説明をしたり、説明を聞いたりすることに伴う何らかの過程ではないからだ」。われわれは何かを意味するときにつねに同じ体験をしているわけではないのである。要するに「体験」を「解釈」の代用とすることはできない。

 37節まで読むつもりだったが疲れてしまったので今日はここまで。やはりどうも頭の調子が悪い。