Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(21)

 このところどうも気負いが生じてしまって哲学書の類を読めなくなっている。無駄に意気込んですぐ精神を疲弊させてしまう。数学の本を気軽に読み進められるようなってきたのと対照的である。これはよくない。もっと気楽に、もっと適当に、しかし集中力は維持して。

 第35節。「形を指す」と「この本を指す」の違いがうまく認識できずにだいぶ悩んだ。ウィトゲンシュタインによればこれらの言葉の間には習得の仕方に違いがあるらしい。

 「この本を指す」という言葉を人がどのように学ぶかをまず考えてみる。たとえば教師が「この本を指せ」と生徒に命じ、生徒が指先を本に向けたら褒めてやる、などの仕方が考えられるだろう。この場合に特徴的なのはたぶん、生徒が本を指したかどうかは、教師によって判定されるということだ。その意味で、「この本を指す」という言葉は、表現が妥当するかどうかの基準が外的に共有されている、と言える。言い換えれば、生徒が当人としては「この本を指」していると考えていたとしても、実際はそうではない(別の方向に指が向いているとか)場合がありうるということである。

 一方で「形を指す」はそうではない。たとえばある人が形を指す場合には、つねに対象の輪郭を指でなぞることにしているとしても、それはあくまで「輪郭を指でなぞる」なのであって、「形を指す」ことそのものではない。このことは、教師が生徒に「形を指せ」と命令し、生徒が輪郭を指でなぞった場合に褒めてやったとしても、「形を指す」ことを教えたことにはならないことからも明らかである。

 たぶん上記の解釈でおおむね正しいと思う。やはり具体例をいろいろと(言葉に出して)検討してみることは重要だ。文章を眼で追っているだけでは内容が像を結ばないような、これはそういう文章である。

 上記の考察が明らかにするのは、「形を指す」という表現の意味は、ある特徴的な体験(例えば輪郭をなぞるとか)とイコールではあり得ないということだ。もし仮に「形を指す」に対応する動作が存在するのであれば、「これを「円」と呼ぶ」と「形を指」しながら言うことによって過不足なく円の意味を伝えることができるだろう。しかしそうではない。また逆に「特徴的な体験」が見出されないような場合でも、われわれは「形を指す」ことができる場合があるのである。

だが、チェスの駒をチェスの駒として指し示すことに特徴的な体験、といったものも君は知っているのか?それなのに我々は、「私は、このを「キング」と呼ぶのだと言いたいのであって、自分が指しているこの木片を「キング」と呼ぶのだと言いたいのではない」と言えるのだ。

 まとめるとたぶんこうなる。「形を指す」ことに特徴的な体験がつねに存在するわけではない。つまり、言語ゲームを前提することなしに「形を指す」を実現するような振る舞いというものは存在しない。したがって言語ゲームを抜きにしては直示的定義もまた不可能である。

 続く第36節。

 そして我々はここでも、類似した沢山のケースでしているのと同じことをしている。つまり、(色ではなく)形を指すこと、と呼べる身体的な動作を一つとして挙げることができないため、その表現にはある精神的な活動が対応している、と言うのだ。
 言語によってある物体の存在が推測させられながらも、そこに物体が存在しない場合、存在するのは精神だ、と我々は言いたくなるのだ。

 存在するのは精神ではなく言語ゲームである。

 ところで「訓練を通じて生徒にある言語ゲームを教える」ことは「特徴的な身体的動作」とは呼んではいけないのだろうか(それは複雑すぎて人間の知性では「特徴」と認知できないかもしれないが、しかし何らかの特徴はあるはずである)。それは直示的教示であり、言語ゲームを作り出す行為であって、言語ゲームを前提する直示的定義とは異なる、ということになるのだろうか。しかし言語ゲームを好きに作り出すことができるのであれば、それをもって言語の「定義」としてしまって良いような気もしてくる。

 訓練が(つねにではないにせよ)ある程度普遍的な効果を持つということは、何らかの意味での「自然な言語」が人間に存在していることを示唆しているように思える(例えば身体や脳の構造)。実際ウィトゲンシュタイン自身が(言語は)「我々の自然誌の一部」なのだと述べている。ではここで直示的定義の不可能性を論じていたのは何故だったのか。

 よくわからなくなってきた。今日は疲れてしまったのでまた今度考える。