Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(23)

 ひと月くらい前からちょっとした研究を進めていた。なんでもいいから出来そうなことをやって論文を出そうという不純な動機ではじめたものである。そこそこ良い結果が出て、不純な研究なりに楽しくなってきたところだったのだが、先日 CVPR 2021 をオンライン聴講していたら、とあるワークショップの中である企業(Fからはじまるデカいところだ)のグループが全く同じアイディアに基づく研究を発表していた。ちょっと考えれば誰でも思いつくような内容だったのでバッティングする可能性はもとより大いにあったわけだけれど、残念なものは残念である。そういうわけでここしばらく無気力な状態が続いていた。あるいは無気力であることを正当化することができていた。しかしそれもそろそろ期限切れだ。元気を出していかねばならない(ほんとうに?)。


 第39節。「これ」という語こそ真の名であるという考えの由来について。

――まさしく次のような理由からである。つまりここで人は、日常的に「名」と呼ばれているものに異議を唱えようとしているのであり、その意義は、名は真に単純なものを表すべきである、と言い表せる。

  例えばバナナとナスを組み合わせたバナナスという食品があったとして、ここで名「バナナス」は「バナナとナスのしかじかな組み合わせ」と分析可能である。この意味で「バナナス」は「本質的には」不必要の便宜的名称であるということになる。このような分析を際限なくつき進めてゆくと、どこかでそれ以上分析できない原子的対象に出会うはずで、原子的対象はそれ以上の分析が不可能なのだから「これ」と指し示すほかないはずである。したがって「これ」に与えられる名こそ過不足なく本当の名なのである。云々。

 というのは第46節の内容であって、第39~45節では副次的な議論がまず展開されている。それは「名には何かが対応しなければならない」という誤解についてである。この誤解もまた「名は真に単純なものを表すべきである」という考えを補強している。というのも、名に対応物が必要だとすると、「ノートゥンク」という剣の名が、剣が破損してもなお意味を持っているという事実を説明するためには、「ノートゥンク」が剣そのものの名ではなく、剣の構成に対する名でなければならないということになるからだ。裏を返せば、壊れうるような対象の名はより要素的なものの名に分析可能だということである。

 こうした誤解の背後には、名の「意味」とその「持ち主」との混同が存在するとウィトゲンシュタインは指摘する。「ノートゥンク」という名の持ち主であった剣が粉々になってしまったとしても、「ノートゥンク」という言葉の用法を(言語ゲームを)設定することは可能である。

43 「意味」という言葉は、それが用いられる大多数の場合に対しては――すべての場合ではないが――、ある語の意味とは言語におけるその使用である、と説明できるだろう。
 そしてときによって我々は、名の持ち主を指すことによって、その名の意味を説明する。

 「ノートゥンク」のような固有名は一般名とは異なり特定の対象と結びついてはいるが、だからといって、固有名の使用法がその対象の存在を要求するわけでは必ずしもない。われわれはその名前を用いて死者を悼むのである。

 46節以降では名は真に単純なもの(=「これ」と指し示すほか説明しようのないもの)を表すという考えが批判されるが、それと「これ」こそが真の名であるという考えとは別であることに注意する。後者の考えは44,45節で批判されている。指示代名詞「これ」はそれが指すものなしには使えない。これはわれわれが一般に想定する「名」の言語ゲームからまったく外れている。以上。

 名前というものをわれわれの日常的用法に照らして考えると、たとえそれが固有名であったとしても、単なる意味の問題、すなわち言語ゲームの概念に回収可能である。それが39~45節の議論の意味するところであろう。それに対して言語が何かを語りうるための超越論的要請として名前を考える(論理哲学論考のように)と、名は真に単純なものを表さねばならないという考えに人は引き寄せられるのである。それはおそらく19世紀以来の要素還元的科学観とも関連しているのだろう。しかし何が単純で何が複合的かということもまた、言語ゲームに依存しているのである。このことが46節以降で述べられる。