Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0226

 われわれは言葉を用いて言葉について考えることができる。文は主語と述語から成ること、動詞や形容詞といった品詞の区別が存在すること、言葉には意味があること、などのことを、われわれは言葉を用いて記述することができる。いままさに僕がそうしているように。
 言葉はそれ自体がひとつの事実である。空気の振動であり、インクの染みであり、液晶に偏光されて網膜に届く LED の輝きである。それらがある仕方で配列されるとき、それは一つの意味を構成する。ある仕方で配列された金属やプラスチックや液体の塊が「ペン」であるのとまったく同じ意味で、「これはペンです」というドットパターンは一つの事実であり、意味を持つのである。ペンという形状のゲシュタルトが書くという行動を誘発するのと同じ意味で、「これはペンです」という言葉は人の行動に影響する。それが言葉が意味を持つということの意味である。
 その意味で、言葉について言葉で語りうるということは、言葉によって事実について語りうる(この「語りうる」の意味については言いたいこともあるが)ことと相違ない。言葉が行為であるという側面に即していえば、たとえば「『握る』という動作において指の関節は曲がっている」と述べるようなものである。いわば文法は骨格と筋肉についての知識であり、それによって人体がどのような姿勢をとりうるかについて予測が可能であるのと同様に、どのような文が妥当であるかを決定できる。また、われわれが解剖学的知識を持たなくとも握ったり殴ったりといったアクションを行える点でも、文法との類似性がみられるのではないだろうか。
 骨格と筋肉の知識は、人体という物体の運動を抽象化して把握するためのひとつのモデルである。人体の可動域の「完全な」理解のためには、骨の弾性やら種々の条件下での関節の可動域の変化やら、さらには細胞の構造に至るまでの子細な知識が必要になるだろう。また「関節を外して通常曲がらない方向に腕を曲げる」などの行為がはたして人体の運動の範疇に含まれるのかどうかといったことについての”決断”も必要になる。これは単なる物質的な議論に収まるものではなく、共同体の文化や規範に関係する話である。挨拶のたびに肩の関節を外す民族だって存在するかもしれない。つまるところ、理解、すなわち現象のモデル化が、特定の目的を指向している以上、現象の完全なる理解というものはありえない。これはそのまま、言語の文法にだって当てはまる議論である。
 言語による言語のモデル化(文法)は自己言及的なあやしさを秘めているように見えて実のところそうでもない。右手の可動域を左手を動かして予測するようなものだといえばよいだろうか。真に驚くべきは「左手は右手でモデル化できる」ということを把握する人間の認識能力のほうだが、それは言語とは無関係の話である。人間の認識は、さまざまなものの中に特徴を見出し、境界線を引き、ある程度の妥当性をもって、現象を識別し、予測し、制御する。それがただ言葉に向けられたというだけのことである。
 文法はモデルに過ぎない。モデルは対象の完全な代替ではなく、ある基準に則っての抽象化である。したがって、文法を理解することによって言語を理解することは当然できない。言語を理解するとは、言語を理解することである。

 文法とそれによって生成された文という対比は、存在しない。というか順序が逆なのであって、まずはじめに文が存在する。ある意味では。

 はじめは言語について語ることが可能な最小の言語について考えていたのだった。しかし、言語に関する語彙を備えた言語を用意すれば、それで言語について語る可能性を用意したことになるのか。おそらくそうではない。それは言語を神秘化し、知識を地層の中で発見を待つ宝石のように見る考え方である。語るとはただルールに則って語を並べることではなく、新しい語彙を生み出すことも含めた動的なものである。だから「最小の言語」など無意味な表現なのだ。
 まあ、別の方角から見れば、チューリングマシンやその他の計算モデルは自身について語ることの可能な言語である(クリーネの再帰定理だっけ?)。ただやっぱそれを言語というか「語り」とは呼びたくないよね、という。

 いい加減『哲学探究』の通読を再開せねば。新しい机(リノリウム天板!)を買ったりモニタを新調したりで書斎環境も整備されてきたところだし。