読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

自由意志のこと

 自由意志について書こうと思う。人は(ある意味では)自由でもなんでもないということと、それから責任について書こうと思う。

 ここで僕の主張したいことは、自由とは主観の形式であるということである。言い換えれば、意志と呼ばれる形式が成立するためには必然的に自由の実感が要請されるということである。サイコロと人間の違いはそこにある。サイコロが自分の出目を自分の意志の結果であると実感しないのに対して、人間は自分の行為(の少なくとも一部)に自分の意志を感覚し言語的にそう主張する。故に人間の認識する世界体系の内側においては人間は「自由」なのである。もちろん、我々は物理法則に拘束されているから、自由を「なにものにも拘束されていない」という意味に取るならば、人間はサイコロと同様に不自由である。そもそも世界に因果的に拘束されていないのであれば、我々の行為は本来的に偶然的なものになり、そんなものを我々は自由だとか意志だとかは言わない。それはサイコロと人間をともに自由にするものであり、それは我々の言う「意志」の基礎にあるような「自由」ではないのである。僕らは、ある波長の光を「赤さ」として知覚するのと同じように、脳の活動を「自由意志」として知覚する。こういうふうにして主観的な自由と客観的な不自由とが同居しているのが、人間の生きる世界である、と僕は思う。

 ところでこうした人間の客観的(因果的)不自由さのことを考えると、責任の所在が怪しくなってくると不安になる人があるかも知れない。確かに責任というものを問えるのは、人が自由を信じているからである。それゆえ自分の自由意志を否定する人は同時に責任からも逃れうるのではないか、と考えるのは自然な流れだと思う。世界それ自体に責任を問うのはむつかしい(それは神を呪うことに似ている)。そして実際、責任能力なしということで免責される人は存在する。だがそれについて僕はこう考える。真の意味で自分の不自由性を直観している人間は、自由を信仰する人々から責任を帰せられ処刑されることもまた己の運命として受け入れるだろうと。彼から見た人間は自分も含めて自然現象の一部であり、彼が人に与える害や人が彼に問う責任は風が葉を吹き飛ばすのに似て彼には見えるであろう。それはもはや普通の人間のいう意味での「見える」ではないだろうが。そういうふうにして一般的な意味での自由・責任概念は問題なく機能している*1。彼を自由と責任の二元論のもとに縛り付けることは出来ずとも、彼の無責任性について倫理的に応答する必要はない。仮に彼が社会の脅威であるならば、ただ野に放たれた猛獣を殺処分するのと同じようにして彼を排除すれば良いのである。人は自由意志信仰を標榜する社会に参加する代償として、責任を負わされているのであり、その二元論を認める限りにおいて社会に対してものを言う権利を認められていると言えるのかもしれない。そしてそういう構図を無自覚に実現している大多数の人々に対して、僕は背筋が寒くなるようなうす気味の悪さを覚えるのである。

*1:もちろん、例えば技術の発展などによってある人の意志がどのように決定されたのか、何がその原因となったのかが全て明らかになるようなことがあればこの限りではない。人々の自由信仰はある種の明晰さと対立する。