また時間があいてしまったのでおさらい。第55節から考察の対象になっていたのは、名が表すものは単純でなければならないという考えだった。ここでいう「名」は、通常の意味での名よりも限定されていて、「言語に属する」ものであり、言語が言語として機能する限り、その記述に意味を与え続けるものである。だから、「名」に対応する存在は、破壊不可能でなければならない。破壊可能なものすべてが破壊された状況を、言語は記述できなければならないから。この考えに対するウィトゲンシュタインの応答は、それが破壊されることによって名が意味を失うのは、それが表す対象ではなく、言語ゲームで名と結びつけられて用いられる範型(パラダイム)だ、というものである。
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第58節。
「私は「Xが存在する」という文脈に登場できないものだけを「名」と呼びたい――それゆえ人は「赤は存在する」とは言えないのだ。というのも、もし赤が存在しなければ、そもそもそれについて何も言えないだろうから。」――より正しくは、次のようになる。もし「Xが存在する」が述べようとするのが、Xは意味を持つ、ということなのであれば、――それはXについての文ではなく、我々の言語使用についての文、すなわち「X」という語の使用についての文なのだ。
悪文の見本のような文だ。「それゆえ」の意味が分からない。最初の文は、しかじかのものを「名」と呼ぶ、という宣言である。そこからなぜ「『赤は存在する』とは言えない」が出てくるのだろうか?というのも、まだ「赤は名である」という話はしていないのだから。赤は名であり、名はしかじかの性質を持つ、だから「『赤は存在する』とは言えない」ならば理解はできる。が、この文章はそうなっていない。
気になったので原文にあたってみた。Und so kann man nicht sagen ›Rot existiert‹, weil … となっている。この Und so のニュアンスについて言語モデルに聞いてみると、演繹というよりは、「そういうわけで、例えば」、 くらいに読むのがいいらしい。Anscombe による英訳版では Thus になっていて、Thus には確かに「たとえば」の意味がある。ちなみに Anscombe が Thus と訳しているということは Claude Opus 5.5 が教えてくれたのだが(実際に参照したらその通りになっていた)細かいところまでよく覚えているものだ。どういう訓練がされているのかかなり気になるところである。というのは、テキストを諳んじられるようになることと、そのテキストに何が書いてあるかを論じられるようなることとは別だからだ。
というわけで、ようやく疑問が解けた。つまり、「だから赤は名である」と述べているわけである。
「私は「Xが存在する」という文脈に登場できないものだけを「名」と呼びたい――たとえば人は「赤は存在する」とは言えないのだ。というのも、もし赤が存在しなければ、そもそもそれについて何も言えないだろうから。」
正直な話、この「それゆえ」がしっくりこなくて、二カ月くらい読むのが止まっていたようなところがある。さっさと原文にあたっておくべきであった。いまは大方の人類よりも賢い人造のハイパーポリグロットが存在しているわけだし。なんか拍子抜けしてしまったので今日はここまで。