Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(31)

 第56,57節。

しかし、もし言語にそうした見本がまったく存在せず、例えば、ある語が表す色を我々が憶えておくとしたらどうか? ──「だが、もし我々がその色を憶えておくのだとしたら、つまりそれは、語を発する際にその色が我々の心の目の前に現れるということだ。それゆえその色を思い出すのが常に可能なのであれば、その色はそれ自身では破壊不可能なはずだ。」

 見本というのは前節の「範型(パラダイム)」のことだ。Wはそれが必須だと考えているが、ここではそれ以外のものが言語を支えている可能性を検討している。ひとつの考えは記憶など「心の中の像」である。心像はたしかに破壊不可能に思えるので、前節の言語観との親和性が高い。つまり、破壊不可能でなければならないのは人物そのものではなく人がその人物に対してもつメンタルモデルだった、というわけだ。

 この考えに対するWの反論は、「心の中の像」にわれわれが抱きがちなある特権性の概念を掘り崩そうというものだ。われわれが「赤さ」を心のなかで思い浮かべるとき、それが「赤さ」であると言えるのはなぜなのか。「赤さ」という語と「赤さの像」は必然的な仕方で結びついており、人間の心の本来的機能として「赤さの像」を結ぶことができるのだ──そんなことはない。われわれは色見本に頼らねばならない場合もあるし、「記憶像が色褪せる」ということだってある。

我々は記憶が述べることを必ずしも最終的で異議申し立てのできない決定として用いているのではない、ということだ。

 われわれは「赤さ」を忘れることがありうる。そしてその時には、「赤さ」という語を用いることは当然できなくなる。全人類が「赤さ」を忘れてしまっても「赤さ」という概念それ自体は存在しているのだ、と考えてはいけない。ここで検討しているのは、あくまでも実践としての言語活動(言語ゲーム)である。そして「赤さ」を忘れた状況にあっては、少なくとも言語ゲームは不可能になる、と誰しも認めるだろう。

─もしその名を持つ色がどんな色なのかを我々が忘れてしまったなら、その名は我々にとって意味を失う、つまり、その名を使ってある決まった言語ゲームをすることが最早できなくなるのだ。そしてこの状況は、我々の言語の道具である範型(パラダイム)が失われてしまったという状況と比べられるものなのだ。

 ようするに、「心の中の像」もそれ自体で言語をささえるのではなく、「心の中の像を言語のなかで用いる」ということがひとつの範型を構成しているのに過ぎない、ということをWは言おうとしているのだ。

哲学探究を読む(30)

 第55節。

「言語に属する名が表すものは破壊不可能でなければならない。というのも破壊可能なものがすべて破壊されてしまった状態が記述できるのでなければならないからだ。そしてその記述には様々な語が現れるだろうが、それらに対応するものはそれ以上破壊されることはないのだ。さもなければそれらの語は意味を持たないだろうから。」

 これはもちろん、Wが批判的に検討しようとしている言語観である。すなわち、名の意味とはその対応するものであるという言語観だ。

 しかし、ここで言う「破壊される」とはどういうことなのか?たとえばある人物が破壊されたとして(死んだとして)その名前は意味を失うわけではない。我々は故人の名前で何かを意味することができている。ということは、彼の名が表していたのは彼という人体ではない、あるいは(同じことかもしれないが)死は「破壊される」の条件を満たしていない、ということだ。

 まあ、それはそれとして、言語というものが対応物に依存していて、それが「破壊」されるとそれを意味することが不可能になる、という考えを受け入れてみよう。例えば人間についても「死」とは異なる真の意味での「破壊」が存在して、その意味で破壊された人物の名は意味を失うのだ、と考えてみる。

 さて「言語に属する名が表すもの」というのは、言語という営みそのものを支える対象、ということだ。この括弧内の文章が述べているのは、言語が純粋な記述の枠組みとして(その記述内容を超越したかたちで)成立しているという前提に立つならば、言語がそのような内容を超えたものである限り、言語それ自体の概念(名詞とか否定とか?)に対応する存在は破壊不可能でなければならない、ということである。だからWは「もちろん我々はここで直ちに、いずれにしても記述そのものは破壊から除外されなければならないではないか、と反論できるかもしれない」とまぜっ返している。記述するという営みは世界の内側の出来事(言語による記述の対象)でもあるのだから、「すべてが破壊された状態を記述する」ということが記述できている時点で、すべてが破壊されているということにはならない。どうでもいいが、僕がウィトゲンシュタインを気分よく(安心して?)読めるのは、この突っ込みの瞬発力によるところが大きい。

 Wもこの反論は一旦保留し、批判対象に即して考えを進める。

─名に対応し、それがなければ名が意味を失うものとは、例えば、言語ゲームで名と結び付けて用いられる範型(パラダイム)がそうだ。

 範型とはWの概念で、その名がどのように用いられるかという模範的な例であって、名の使用において参照点(比較対照されるもの)となるものである(と理解している)。

 例えば、少し前の節の例だが、「メートル原器を1メートルと呼ぶ」ということはひとつの範型(パラダイム)である。注意するべきは、これは「定義」ではない。いや、もちろん定義でもあるのだが、定義というゲームもまたさまざまな範型に依存しているのだ。範型はあくまで範型であり、それをどのように参照すべきか決定するわけではない。あくまでわれわれは、何らかの意味での自然さに従って、範型を参照し言葉を使う。それがきわめて高度に織りなされた結果として、「定義」のように言葉に対し何か唯一の用法を定めるような営みも可能となるのだ。機械学習のアナロジーに頼るなら、そこではきわめて分布が尖っている。しかしその状態しか取れないかというそうでもないのだ(誤りやパラダイムシフトの可能性)。

哲学探究を読む(29)

 2024年にはいろいろなことがあった。いろいろなことがあると、精神をたたえた心の水盤は慌ただしく波打ち、あるいは舞い上がった砂で濁り、水底を見通すことが難しくなる。水底が見えて初めて、水による光の屈折やら散乱やらが問題になるのであって、要するに、精神そのものを真に探究の対象とするためには――うまいこと言おうとして滑ってしまった感が否めない。まずはリハビリだ。無理せずにいこう。


 第53節。引き続き第48節で導入された言語ゲームが考察の対象になる。復習すると、その言語ゲームは、色正方形3×3の配置を「RGB・・・」のように記号を並べて記述するというものだ。ここで記号は特定の位置の正方形の色に「対応」しているわけだが、そのような対応関係をわれわれがすぐさま理解できるのは、RやGといった記号が自然言語の色名の代理であることをすでに知っているからだ。しかし第48節のゲームを「言語ゲーム」であるというからには、慣れ親しんだ自然言語のことはいったん忘れて、並べられた色正方形と記号だけがある言語世界のことを想像しなければならない。そこには赤や緑といった色名は存在しないし、それら色名を取り囲む豊かな言語世界が広がっているわけでもなく、「対応」の概念もない。そのような世界において「Rが赤い色正方形に対応している」とはいったいいかなる事態を意味しているのか、ということをウィトゲンシュタインは問うているのだと思われる。

 「記号列のN番目の記号はこの位置の色正方形の色を指しているのだ」と言ってしまうなら、「対応」に関する考察はそこで打ち切られてしまう。われわれはその記述がどのようにして意味を持つのかを探究したいのに、同語反復をもってその答えとしてしまうようなものだ。

 さて言語ゲーム(48)を外側から観察している人が「Rが赤い色正方形に対応している」とみなして妥当な場合を考えてみよう。例えばこの言語ゲームを営む人たちが、どのようにそのゲームに習熟したかを観察していた場合は、そのように述べることが妥当であるかもしれない。また、記号と色正方形を並べた表があって、それがこの言語の教育において使われ、またその表が係争時における参照先になっている場合にも、そう述べることが妥当である。

 ここ登場した「記号と色正方形を並べた表」は「言語ゲームの規則の表現」と呼ぶことが出来る。あくまでも表現であって「言語ゲームの規則」ではないことに注意しよう。「言語ゲームの規則とはなんなのか」という問題がここで考察されていることだ。言語ゲーム(48)はシンプルなゲームなので、規則は「記号と色正方形の対応」ということになるのだが、その「対応」という概念はゲーム中に存在しない。ただその「表現」がゲーム中に見いだされる場合はある。先の「表」はその一つの例である。またこの表は教育や係争時の参照先として使われるだけではなく、言語使用のなかで道具として使われる場合も考えられる。

もしこうした表を「言語ゲームの規則の表現」と呼ぶとするなら、我々が言語ゲームの規則と呼ぶものには、ゲームの中で、実に様々な役割を与えることができると言える。

 裏を返せば、「言語ゲームの規則の表現」とされるものが「言語ゲームの規則そのもの」に対してどのような関係にあるのか、一概には決定できないということでもある。

 第54節に続く。われわれは「ゲームには規則がある」と言う。それは規則(の表現=ルールブックなど)がゲーム習得の補助手段である場合や、規則(の表現)自身がゲームの道具になる場合である。また規則の表現がゲームの周辺に見いだされないような場合にも、ゲームの実践から規則を読み取ることが出来るという理由で(自然に法則が見いだされるように)規則がある、という場合もある。その場合、ゲームプレイヤーがミスした場合(規則を破ってしまった場合)にそれを区別できるのか?という問題があるけども、ウィトゲンシュタインはそれが可能な場合もあるだろう、と言う。

 このように「ゲームには規則がある」という表現に妥当する状況は様々にある。おそらくだけど、第53節から一足飛びに「規則の表現があるだけであって、規則そのものなどない」と結論づけてしまうのはよろしくない、というのが54節がここに置かれている理由だろう。規則の表現と規則の間の多様な関係を観察することは、「規則のイデア」のようなプラトニズム的概念への批判を導くが、同時にイデア論の否定もまたプラトニズム的である。だがそこにはまず言葉の間の多様な関係がある!のだ。

 

 

 

 

哲学探究を読む(28)

 第51節。これまでの議論は『テアイテトス』の言語観を論駁するためのものだった。『テアイテトス』の言語観とは、世界には「原要素」が存在し、それが名指されることで、対象と記号の、すなわち世界と言語の結び付きが作られているという言語観である。人がこのような言語観を持つ背景には、「単純なもの-複合的なもの」の対立を必然的なものとみなす傾向がある。要するに、要素還元主義的な世界観、眼の前のものをひたすら細かく砕いて分析してゆけば、絶対必然の素粒子に辿り着くはずだという世界観を、言語に対しても適用するならば、そのような原要素の存在が(世界の側に)要請されるのだ。『論考』における「対象」の概念もそのようなものであり、前期ウィトゲンシュタインは、言語と世界の関係を対象と名の結びつきに還元することで、命題の意味を完全に分析することが可能になると考えたのだった。完全な分析の可能な命題が「語りうるもの」というわけである。そして、このような言語観が実際に妥当することを見て取ることによって、その正しさが「示される」というのが論考の枠組みだった。

 問題は、そのような対象すなわち原要素の例を挙げることができないということである。それが原要素であるためには、他の要素と完全に独立でなければならない(でなければ互いに説明-被説明関係が成り立ってしまう)わけだが、この条件を完全に満たす対象が見つからないのである。また「こんにちは」という挨拶や身振り手振りといった表現はどのように分析されるか明確でないという事情もある。これらの理由から、ウィトゲンシュタインは言語における要素還元主義を退け、単純-複合関係を一意的なものとは考えなくなった。第48節の言語ゲームは、要素還元主義的言語観のまずさを示すためのものである。

 第48節以降の議論の流れは、まず『テアイテトス』を反映した言語ゲームを天下り的に設計した上で、それでもなお単純-複合関係が必然的なものではないことを示すものになっている。なるほどたしかに、という気分になってくる。

 それなりに見通しの良い要約になったのではないか?ものすごく集中した状態とボーっとした状態を何度か繰り返すと、あるとき突然筆がするすると進み出すことがある。「ものすごく集中した状態」を意識的に作り出すことがこれまで出来なかったのだが、その点が最近改善されてきて少し高揚しているところである。

 それで第51節。「対象」と「要素命題」の結びつきに還元しないとすると、では言葉と世界の対応はどのように考えればよいのだろうか?第48節のゲームではどうなっていただろうか。

言語ゲーム(48)を記述する際に私は、「R」、「S」等の語は正方形の色に対応すると述べた。だがこの「対応」とはどういうことなのか? これらの記号に正方形の決まった色が、いかなる意味で対応するのか?

 言語ゲーム(48)の導入においては、「R」「S」といった語は、われわれの日常語「赤」「黒」などと写像的に対応していた。しかしこれは説明のための便宜的なものであって、本来的には(言語ゲーム概念の意図するところでは)、これらの語は範例(パラダイム)を指差すことで学習されるものである。ではこの範例が対応なのだろうか。学習時はそう言ってよいかもしれない。しかし言語を使用する実践時においては、すでにわれわれはその範例から離れているのだ。では何が語と色の対応を作り出しているのか。一つの考えは「色正方形の複合物を記述する者は、赤い正方形がある場合は常に「R」と言うこと」である。しかし「言葉を使う」ことが対応を生み出すのだとすれば、その人が誤って黒いものに「R」という記号を使った場合、それを誤りだと言うことができなくなってしまう(だって言った通りの対応があることになるのだから)。そこで二つ目の考えは、「記憶の中の範例」が学習時に使った範例の代わりを果たしているのだ、というものである。しかしこれは本当だろうか?(実はいろいろ問題が出てくるのだ)

 ウィトゲンシュタインはここでは解答を出さない。

ことをよりはっきりさせるためには、類似した沢山のケースと同様、起こっていることの詳細をはっきりと見なければならない、起こっていることを詳しく観察しなければならない。


 続いて第52節。全文引用してしまう。

 ネズミは灰色のボロ布とほこりから自然に生まれてくるのだと仮定したい気持ちが私にあるのなら、ネズミがどんなふうに隠れているのだろうかとか、そこからネズミがどのように出てくるのだろうかとかを明らかにするために、そのボロ布を詳しく調べるのは良いことである。だがネズミがそこから生まれるのはあり得ないと私が確信しているのならば、そうした調査は余計なことだろう。
 だが、哲学にあってこうした詳細な観察に反対するものが何なのか理解することを、我々はまず学ばなければならないのだ。

 ネズミとは言語と世界の対応関係である(と鬼界先生は書いていた)。ここで言われているのはたぶん次のようなことだ。『探究』のウィトゲンシュタインはもはやそこからネズミが出てくるとは考えていない。だから詳細な観察はいまでは余計なことである。しかし『論考』のウィトゲンシュタインはそこからネズミが生まれてくると考えていたのであり、しかも詳細な観察を抜きにそう考えていた。哲学においてはこの種の独断がしばしば見られるのであって、われわれはまずそうした傾向性が何に由来しているのかを学ばなくてはならない。

哲学探究を読む(27)

 第50節。原要素についての議論の続き。

それでは、要素については、存在するとも存在しないとも言えない、と言うのはどういうことのなのか?

 この問いがそもそもどこから出てきたのかというと、第46節の『テアイテトス』の引用である。「それ以外の規定は、それはある、というものであれ、それはない、というものであれ、不可能なのだ」。この問いに対する一つの答えは、「存在するということが要素間の結合のことであるならば、ある要素の存在について話すことはナンセンスである」というものである。だがこの答えにわれわれは満足できない。というのも、

だが我々は次のように言いたくなるのだ。要素が存在する、と言えないのは、そもそもそれが存在していなければ、それを名指すことすらできないだろうし、それについて何かを言ったりもできないだろうからなのだ、と。

 名指すことができるのであれば、それは存在していなければならない。だから、「要素が存在する」は同語反復である、ということだろうか?要素とは存在するものであり、存在しないことがあり得ないようなものであり、ゆえに「要素が存在する」と言うことはナンセンスである。そのような特異な在り方をする原要素とは、神秘的な性質を帯びたものに違いない。

 この誤解を解消するために、ウィトゲンシュタインが持ち出すのが、メートル原器の例である。それは「長さ一メートルである、とも、長さ一メートルでない、とも言えない」わけだが(その意味で「存在するともしないとも言えない」要素とパラレルである)、これはなんのことはない、「メートル法を用いて長さを測るというゲームでのこのものが果たしている特別な役割の特徴を述べたに過ぎない」のである。

 このようにAであるともないとも言えないような対象の特異性は、それが記述されるものではなく、記述のための道具だからだ、と表現される。

存在しなければならないかのように思えるものとは、言語の一部なのだ。それは我々の言語ゲームにおける範型(パラダイム)、すなわちそれとの比較対照が行われるものなのだ。そして、このことを確認することは、重大な意味を持ちうるのだ。しかし、それでもやはり、それはあくまで我々の言語ゲーム――すなわち我々の表現方法――に関する確認である。

 最後の但し書きが気になる。「表現方法に関する確認である」とわざわざ書いているのだから、これは、この確認が表現方法以外の何かに関する確認であるという誤解を退けるためのものだろう。素朴に考えるなら、表現される側に関する確認ではないということだと思うのだが、その理解でよいのだろうか?つまり、存在しなければならないかのように思われるものは、何か特別な性質を(言語ゲームから独立に)持っているがゆえに言語の一部に採用されているのではなく、それが言語の一部であるのはあくまで表現のレベルで決まっている話なのであり、違った表現形態もまた同様にありうる、ということ。書いているうちにこの理解でよい気がしてきた。

哲学探究を読む(26)

 また前回から日にちが開いてしまった。誰に対しての言い訳かわからないが――というか言い訳とは本質的に自分に対してするものである――書いておくと、去年から職場(現時点基準だと前職)の人たちと『青色本』読書会をしていて、それがまだ続いている。正確には、『青色本』の前半、つまり「語の意味」にまつわる議論を読んだあとに、ちょっと休止期間を挟んで(転職等でてんてこ舞いだったのだ)、永井均『ウィトゲンシュタインの誤診 - 『青色本』を掘り崩す』をいま読み進めているところである。継続的な読書会を主催するのは初めてだったのだが、参加者たちの哲学的才覚?にも恵まれて、それなりに実りある読書会になっている、と思う。少なくとも一人で読むよりも詳細に議論を追えている実感がある。嬉しく思う反面、悔しくもある。スタンドアロンで十全に機能したいというのが自分の信念であるから。


 それはさておき、『探究』の続き。第49節。『テアイテトス』で提示された言語観では、文とは名の複合物であり、名は「原要素」に対応しているということになっていた。この節では「原要素については説明することができず、ただ名指すことができるだけだ」という考えが考察される。

 第48節では、『テアイテトス』的言語観が妥当するような言語ゲームが導入された。その言語ゲームとは、色正方形をグリッド状に並べたパターンを、色名を一列に並べることで記述するというものだった。この言語ゲームにおいて、「原要素」がいかなる仕方で現れるかを観察してみようというのが、この節で言われていることである。さて、ここで原要素とはそれぞれの色名であったわけだから、色名それ自体が単独で現れる場合について見てみよう。例えば「R」(赤)とだけ書かれている場合。この単独の「R」が登場するのは二つの場面が考えらえる。一つは、1x1グリッドの記述であるという解釈。この場合の「R」は文であり、要するに「自明な複合物」であって、「原要素」が剝き出しになっているわけではないから、あまり問題ではない。もう一つは、「R」という記号の教示がなされている場合。このとき「R」は記述ではありえない、というのもその準備をしている段階だからである。もちろん、教示している側(がいるとすれば)にとっては「R」は の記述かもしれないが、しかしとはいっても、この教示という行為は、先に定義された言語ゲームの一幕ではありえない。こうした状況では、「R」という語はいかなる記述でもない、それを用いて人は要素を名指しているのだ言えるかもしれない。

だが、それだからこそ、人は要素を名指すことしかできない、とここで言うのは奇妙なことだろう。名指すことと記述することは同じレベルに属する行為ではないのだ。

たぶんこういうことだ。原要素に対しては名指すことしかできないと人が言いたくなるのは、複合物については記述することも名指すこともできるという事実との対比においてである。その前提としては、原要素と複合物が言語のなかで対等であるという考えがある。それゆえに原要素の特殊性が際立つように思われるのだ。しかし「名指しとは記述の準備」であり「言語ゲームのいかなる一手でもない」のだと考えるならば、言語ゲームの一手であるところの「文」との対比は意味をなさなく成り、よって特殊でも何でもないことになる。

 と理解したけれど、これは正しい解釈だろうか?

 久しぶりに真面目に読んでみてよく分からなくなってきたのだが、言語ゲーム概念を用いたこれまでの考察は、『テアイテトス』的言語観やアウグスティヌス的言語観を、事実に即さない言語観だとして退けるようなものではない。はずである。むしろ、われわれの言語活動が(仮に)言語ゲームに尽きるのであれば、さまざまな混乱が(解決されるのではなく)解消される、ということを示してみせるのが、ウィトゲンシュタインのやり方である。と思われる。だからこの本でウィトゲンシュタインがやらねばならないことは、あらゆる言語活動が言語ゲームとみなせる(「である」とは決して言いきれないだろう)ことを示すことだ。大きな壁は「規則」と「心」に関係する言語活動であり、したがって『探究』第一部の後半はこれら二つの議論が中心になっている。


 一日かけて10ページくらい読むつもりだったのだが、一節で疲れてしまった。体力と集中力を鍛えなおさないといけない。

転職

 5月いっぱいで現職を退職し、6月から東大のとある研究室で労働することになりました。役職はリサーチエンジニア、ということになっている。現職には、アルバイト時代も含めれば、かれこれ7年以上勤めていたことになる。長いこと居座ったものだ。よけいな色のないところがわりと気に入っていたのだ。しかし先日、とある巨大なコンサル会社に買収され、色合いが大きく変わりそうな雰囲気だったので、これもなにかの機会だろうと転職を決意したのだった。で、転職を決意したちょうどそのタイミングで、その研究室の人から誘いを受けた。人生というのは不思議なものである。思えば現職に入社したのも妙な縁からであって(某しにゃん主催の読書会で出会った人に誘われたのだ)、行き先が必要になると自動的に道が現れるのが僕の人生の特色らしい。流されてばかりだが、まあそのぶん、流れ着いた先では可能な限りよく機能したいと思う。自分の性能を認めてくれる場所があるというのは大変ありがたいことだ。経歴といえば、学部で少し哲学をやったに過ぎないのにね(もちろんこれは自分にとっては意味のあったことだ)。ところで、現職についてはいろいろ思うところがある。少なくとも数年くらい前までのこの場所には、好ましい種類の無色さと、人生の踊り場というか休憩室というか、そういう種類の寛容さがあった。社員のバックグラウンドはかなり多様だったし、他人への興味の薄さからくる優しさ(あるいは忍耐強さ)のようなものがあった。もちろん、そうではない例もあったし、またこうした環境で逆にしんどい思いをした人も多くいるだろうなとも思うけれど。そういう場所が、社会の巨大なダイナミズムにのまれて消えるのは残念なことだと感じる。まあ、諸行無常である。さて、6月からは大学である。卒業したときには、アカデミアとの縁はもうこれきりだろうなと思っていたわけで、何が起こるかよくわからないものだ。学生時代は完全に不適応を起こしていたが、今回はどうだろう。やれるだけやってみるつもりだけど。