第56,57節。
しかし、もし言語にそうした見本がまったく存在せず、例えば、ある語が表す色を我々が憶えておくとしたらどうか? ──「だが、もし我々がその色を憶えておくのだとしたら、つまりそれは、語を発する際にその色が我々の心の目の前に現れるということだ。それゆえその色を思い出すのが常に可能なのであれば、その色はそれ自身では破壊不可能なはずだ。」
見本というのは前節の「範型(パラダイム)」のことだ。Wはそれが必須だと考えているが、ここではそれ以外のものが言語を支えている可能性を検討している。ひとつの考えは記憶など「心の中の像」である。心像はたしかに破壊不可能に思えるので、前節の言語観との親和性が高い。つまり、破壊不可能でなければならないのは人物そのものではなく人がその人物に対してもつメンタルモデルだった、というわけだ。
この考えに対するWの反論は、「心の中の像」にわれわれが抱きがちなある特権性の概念を掘り崩そうというものだ。われわれが「赤さ」を心のなかで思い浮かべるとき、それが「赤さ」であると言えるのはなぜなのか。「赤さ」という語と「赤さの像」は必然的な仕方で結びついており、人間の心の本来的機能として「赤さの像」を結ぶことができるのだ──そんなことはない。われわれは色見本に頼らねばならない場合もあるし、「記憶像が色褪せる」ということだってある。
我々は記憶が述べることを必ずしも最終的で異議申し立てのできない決定として用いているのではない、ということだ。
われわれは「赤さ」を忘れることがありうる。そしてその時には、「赤さ」という語を用いることは当然できなくなる。全人類が「赤さ」を忘れてしまっても「赤さ」という概念それ自体は存在しているのだ、と考えてはいけない。ここで検討しているのは、あくまでも実践としての言語活動(言語ゲーム)である。そして「赤さ」を忘れた状況にあっては、少なくとも言語ゲームは不可能になる、と誰しも認めるだろう。
─もしその名を持つ色がどんな色なのかを我々が忘れてしまったなら、その名は我々にとって意味を失う、つまり、その名を使ってある決まった言語ゲームをすることが最早できなくなるのだ。そしてこの状況は、我々の言語の道具である範型(パラダイム)が失われてしまったという状況と比べられるものなのだ。
ようするに、「心の中の像」もそれ自体で言語をささえるのではなく、「心の中の像を言語のなかで用いる」ということがひとつの範型を構成しているのに過ぎない、ということをWは言おうとしているのだ。