Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(28)

 第51節。これまでの議論は『テアイテトス』の言語観を論駁するためのものだった。『テアイテトス』の言語観とは、世界には「原要素」が存在し、それが名指されることで、対象と記号の、すなわち世界と言語の結び付きが作られているという言語観である。人がこのような言語観を持つ背景には、「単純なもの-複合的なもの」の対立を必然的なものとみなす傾向がある。要するに、要素還元主義的な世界観、眼の前のものをひたすら細かく砕いて分析してゆけば、絶対必然の素粒子に辿り着くはずだという世界観を、言語に対しても適用するならば、そのような原要素の存在が(世界の側に)要請されるのだ。『論考』における「対象」の概念もそのようなものであり、前期ウィトゲンシュタインは、言語と世界の関係を対象と名の結びつきに還元することで、命題の意味を完全に分析することが可能になると考えたのだった。完全な分析の可能な命題が「語りうるもの」というわけである。そして、このような言語観が実際に妥当することを見て取ることによって、その正しさが「示される」というのが論考の枠組みだった。

 問題は、そのような対象すなわち原要素の例を挙げることができないということである。それが原要素であるためには、他の要素と完全に独立でなければならない(でなければ互いに説明-被説明関係が成り立ってしまう)わけだが、この条件を完全に満たす対象が見つからないのである。また「こんにちは」という挨拶や身振り手振りといった表現はどのように分析されるか明確でないという事情もある。これらの理由から、ウィトゲンシュタインは言語における要素還元主義を退け、単純-複合関係を一意的なものとは考えなくなった。第48節の言語ゲームは、要素還元主義的言語観のまずさを示すためのものである。

 第48節以降の議論の流れは、まず『テアイテトス』を反映した言語ゲームを天下り的に設計した上で、それでもなお単純-複合関係が必然的なものではないことを示すものになっている。なるほどたしかに、という気分になってくる。

 それなりに見通しの良い要約になったのではないか?ものすごく集中した状態とボーっとした状態を何度か繰り返すと、あるとき突然筆がするすると進み出すことがある。「ものすごく集中した状態」を意識的に作り出すことがこれまで出来なかったのだが、その点が最近改善されてきて少し高揚しているところである。

 それで第51節。「対象」と「要素命題」の結びつきに還元しないとすると、では言葉と世界の対応はどのように考えればよいのだろうか?第48節のゲームではどうなっていただろうか。

言語ゲーム(48)を記述する際に私は、「R」、「S」等の語は正方形の色に対応すると述べた。だがこの「対応」とはどういうことなのか? これらの記号に正方形の決まった色が、いかなる意味で対応するのか?

 言語ゲーム(48)の導入においては、「R」「S」といった語は、われわれの日常語「赤」「黒」などと写像的に対応していた。しかしこれは説明のための便宜的なものであって、本来的には(言語ゲーム概念の意図するところでは)、これらの語は範例(パラダイム)を指差すことで学習されるものである。ではこの範例が対応なのだろうか。学習時はそう言ってよいかもしれない。しかし言語を使用する実践時においては、すでにわれわれはその範例から離れているのだ。では何が語と色の対応を作り出しているのか。一つの考えは「色正方形の複合物を記述する者は、赤い正方形がある場合は常に「R」と言うこと」である。しかし「言葉を使う」ことが対応を生み出すのだとすれば、その人が誤って黒いものに「R」という記号を使った場合、それを誤りだと言うことができなくなってしまう(だって言った通りの対応があることになるのだから)。そこで二つ目の考えは、「記憶の中の範例」が学習時に使った範例の代わりを果たしているのだ、というものである。しかしこれは本当だろうか?(実はいろいろ問題が出てくるのだ)

 ウィトゲンシュタインはここでは解答を出さない。

ことをよりはっきりさせるためには、類似した沢山のケースと同様、起こっていることの詳細をはっきりと見なければならない、起こっていることを詳しく観察しなければならない。


 続いて第52節。全文引用してしまう。

 ネズミは灰色のボロ布とほこりから自然に生まれてくるのだと仮定したい気持ちが私にあるのなら、ネズミがどんなふうに隠れているのだろうかとか、そこからネズミがどのように出てくるのだろうかとかを明らかにするために、そのボロ布を詳しく調べるのは良いことである。だがネズミがそこから生まれるのはあり得ないと私が確信しているのならば、そうした調査は余計なことだろう。
 だが、哲学にあってこうした詳細な観察に反対するものが何なのか理解することを、我々はまず学ばなければならないのだ。

 ネズミとは言語と世界の対応関係である(と鬼界先生は書いていた)。ここで言われているのはたぶん次のようなことだ。『探究』のウィトゲンシュタインはもはやそこからネズミが出てくるとは考えていない。だから詳細な観察はいまでは余計なことである。しかし『論考』のウィトゲンシュタインはそこからネズミが生まれてくると考えていたのであり、しかも詳細な観察を抜きにそう考えていた。哲学においてはこの種の独断がしばしば見られるのであって、われわれはまずそうした傾向性が何に由来しているのかを学ばなくてはならない。

哲学探究を読む(27)

 第50節。原要素についての議論の続き。

それでは、要素については、存在するとも存在しないとも言えない、と言うのはどういうことのなのか?

 この問いがそもそもどこから出てきたのかというと、第46節の『テアイテトス』の引用である。「それ以外の規定は、それはある、というものであれ、それはない、というものであれ、不可能なのだ」。この問いに対する一つの答えは、「存在するということが要素間の結合のことであるならば、ある要素の存在について話すことはナンセンスである」というものである。だがこの答えにわれわれは満足できない。というのも、

だが我々は次のように言いたくなるのだ。要素が存在する、と言えないのは、そもそもそれが存在していなければ、それを名指すことすらできないだろうし、それについて何かを言ったりもできないだろうからなのだ、と。

 名指すことができるのであれば、それは存在していなければならない。だから、「要素が存在する」は同語反復である、ということだろうか?要素とは存在するものであり、存在しないことがあり得ないようなものであり、ゆえに「要素が存在する」と言うことはナンセンスである。そのような特異な在り方をする原要素とは、神秘的な性質を帯びたものに違いない。

 この誤解を解消するために、ウィトゲンシュタインが持ち出すのが、メートル原器の例である。それは「長さ一メートルである、とも、長さ一メートルでない、とも言えない」わけだが(その意味で「存在するともしないとも言えない」要素とパラレルである)、これはなんのことはない、「メートル法を用いて長さを測るというゲームでのこのものが果たしている特別な役割の特徴を述べたに過ぎない」のである。

 このようにAであるともないとも言えないような対象の特異性は、それが記述されるものではなく、記述のための道具だからだ、と表現される。

存在しなければならないかのように思えるものとは、言語の一部なのだ。それは我々の言語ゲームにおける範型(パラダイム)、すなわちそれとの比較対照が行われるものなのだ。そして、このことを確認することは、重大な意味を持ちうるのだ。しかし、それでもやはり、それはあくまで我々の言語ゲーム――すなわち我々の表現方法――に関する確認である。

 最後の但し書きが気になる。「表現方法に関する確認である」とわざわざ書いているのだから、これは、この確認が表現方法以外の何かに関する確認であるという誤解を退けるためのものだろう。素朴に考えるなら、表現される側に関する確認ではないということだと思うのだが、その理解でよいのだろうか?つまり、存在しなければならないかのように思われるものは、何か特別な性質を(言語ゲームから独立に)持っているがゆえに言語の一部に採用されているのではなく、それが言語の一部であるのはあくまで表現のレベルで決まっている話なのであり、違った表現形態もまた同様にありうる、ということ。書いているうちにこの理解でよい気がしてきた。

哲学探究を読む(26)

 また前回から日にちが開いてしまった。誰に対しての言い訳かわからないが――というか言い訳とは本質的に自分に対してするものである――書いておくと、去年から職場(現時点基準だと前職)の人たちと『青色本』読書会をしていて、それがまだ続いている。正確には、『青色本』の前半、つまり「語の意味」にまつわる議論を読んだあとに、ちょっと休止期間を挟んで(転職等でてんてこ舞いだったのだ)、永井均『ウィトゲンシュタインの誤診 - 『青色本』を掘り崩す』をいま読み進めているところである。継続的な読書会を主催するのは初めてだったのだが、参加者たちの哲学的才覚?にも恵まれて、それなりに実りある読書会になっている、と思う。少なくとも一人で読むよりも詳細に議論を追えている実感がある。嬉しく思う反面、悔しくもある。スタンドアロンで十全に機能したいというのが自分の信念であるから。


 それはさておき、『探究』の続き。第49節。『テアイテトス』で提示された言語観では、文とは名の複合物であり、名は「原要素」に対応しているということになっていた。この節では「原要素については説明することができず、ただ名指すことができるだけだ」という考えが考察される。

 第48節では、『テアイテトス』的言語観が妥当するような言語ゲームが導入された。その言語ゲームとは、色正方形をグリッド状に並べたパターンを、色名を一列に並べることで記述するというものだった。この言語ゲームにおいて、「原要素」がいかなる仕方で現れるかを観察してみようというのが、この節で言われていることである。さて、ここで原要素とはそれぞれの色名であったわけだから、色名それ自体が単独で現れる場合について見てみよう。例えば「R」(赤)とだけ書かれている場合。この単独の「R」が登場するのは二つの場面が考えらえる。一つは、1x1グリッドの記述であるという解釈。この場合の「R」は文であり、要するに「自明な複合物」であって、「原要素」が剝き出しになっているわけではないから、あまり問題ではない。もう一つは、「R」という記号の教示がなされている場合。このとき「R」は記述ではありえない、というのもその準備をしている段階だからである。もちろん、教示している側(がいるとすれば)にとっては「R」は の記述かもしれないが、しかしとはいっても、この教示という行為は、先に定義された言語ゲームの一幕ではありえない。こうした状況では、「R」という語はいかなる記述でもない、それを用いて人は要素を名指しているのだ言えるかもしれない。

だが、それだからこそ、人は要素を名指すことしかできない、とここで言うのは奇妙なことだろう。名指すことと記述することは同じレベルに属する行為ではないのだ。

たぶんこういうことだ。原要素に対しては名指すことしかできないと人が言いたくなるのは、複合物については記述することも名指すこともできるという事実との対比においてである。その前提としては、原要素と複合物が言語のなかで対等であるという考えがある。それゆえに原要素の特殊性が際立つように思われるのだ。しかし「名指しとは記述の準備」であり「言語ゲームのいかなる一手でもない」のだと考えるならば、言語ゲームの一手であるところの「文」との対比は意味をなさなく成り、よって特殊でも何でもないことになる。

 と理解したけれど、これは正しい解釈だろうか?

 久しぶりに真面目に読んでみてよく分からなくなってきたのだが、言語ゲーム概念を用いたこれまでの考察は、『テアイテトス』的言語観やアウグスティヌス的言語観を、事実に即さない言語観だとして退けるようなものではない。はずである。むしろ、われわれの言語活動が(仮に)言語ゲームに尽きるのであれば、さまざまな混乱が(解決されるのではなく)解消される、ということを示してみせるのが、ウィトゲンシュタインのやり方である。と思われる。だからこの本でウィトゲンシュタインがやらねばならないことは、あらゆる言語活動が言語ゲームとみなせる(「である」とは決して言いきれないだろう)ことを示すことだ。大きな壁は「規則」と「心」に関係する言語活動であり、したがって『探究』第一部の後半はこれら二つの議論が中心になっている。


 一日かけて10ページくらい読むつもりだったのだが、一節で疲れてしまった。体力と集中力を鍛えなおさないといけない。

転職

 5月いっぱいで現職を退職し、6月から東大のとある研究室で労働することになりました。役職はリサーチエンジニア、ということになっている。現職には、アルバイト時代も含めれば、かれこれ7年以上勤めていたことになる。長いこと居座ったものだ。よけいな色のないところがわりと気に入っていたのだ。しかし先日、とある巨大なコンサル会社に買収され、色合いが大きく変わりそうな雰囲気だったので、これもなにかの機会だろうと転職を決意したのだった。で、転職を決意したちょうどそのタイミングで、その研究室の人から誘いを受けた。人生というのは不思議なものである。思えば現職に入社したのも妙な縁からであって(某しにゃん主催の読書会で出会った人に誘われたのだ)、行き先が必要になると自動的に道が現れるのが僕の人生の特色らしい。流されてばかりだが、まあそのぶん、流れ着いた先では可能な限りよく機能したいと思う。自分の性能を認めてくれる場所があるというのは大変ありがたいことだ。経歴といえば、学部で少し哲学をやったに過ぎないのにね(もちろんこれは自分にとっては意味のあったことだ)。ところで、現職についてはいろいろ思うところがある。少なくとも数年くらい前までのこの場所には、好ましい種類の無色さと、人生の踊り場というか休憩室というか、そういう種類の寛容さがあった。社員のバックグラウンドはかなり多様だったし、他人への興味の薄さからくる優しさ(あるいは忍耐強さ)のようなものがあった。もちろん、そうではない例もあったし、またこうした環境で逆にしんどい思いをした人も多くいるだろうなとも思うけれど。そういう場所が、社会の巨大なダイナミズムにのまれて消えるのは残念なことだと感じる。まあ、諸行無常である。さて、6月からは大学である。卒業したときには、アカデミアとの縁はもうこれきりだろうなと思っていたわけで、何が起こるかよくわからないものだ。学生時代は完全に不適応を起こしていたが、今回はどうだろう。やれるだけやってみるつもりだけど。

自分のこと

 三十歳になって自分という人間について考えることが増えた。昔は、自分という人間をただの《私》の乗り物くらいにしか思っていなかった。とまで言うと言い過ぎかもしれないけれども、この宇宙に一点だけの超越という側面が前に出すぎていて、自分の他の性質にあまり目が向かなかったのである。年を取り、人間たちの中でどうにかこうにか生きていく、ということが問題になってきて初めて、人間としての自分の性質というものが考えるべき対象になってきたのだ。

 それで分かってきたのは、自分は考えるよりも感じる人間だということである。もちろん自分にとって、よく思考するということは重要な課題だったし、自分に思考力がないとも思わないが、しかしある本質的な一点において僕は思考型の人間ではないということに気付いた。それは、僕にとって思考は、判断の直接の材料にはならないということだ。あるいは、世界に意味を与えてくれるものではないということだ。記号を操作し、世界に概念を付与することは、それがいくら巧みにできたとしても、僕が何かを選ぶ根拠にはならない。僕の選択の地盤となりうるのは、つまり世界に意味を与えうるのは、結局のところ「感じ」なのであり、思考はそれを変換したり接続したりはするが、思考それ自体が新しい地盤になることはないのである。だから、あまりに多層化された思考は、地面から離れすぎたひょろひょろの木のように、力を失ってしまう。思考を本当の意味で使いこなす人たちは、思考の結果生まれた概念を新たな足場として、無限に登ってゆくことができる。そういう人がいることが分かってきた。しかし、僕はそうではないのだ。

 では自分は何をして生きるべきか。思考が僕を支えないのであれば。たぶん、美しいものを拠り所にするのが良いのだろう。美は僕を支えうる、気がする。芸術のことはよく分からないが、美しいと思うものはあり、それが身近にあるのは心強いことだと感じる。青空の神秘を見上げるために僕は生きているのであり、数日前にノートに殴り書きした図がなんだかイケていることに活力を与えられている。筋の良い抽象によって切り開かれた景色の透明感が僕に思考することを求め、ベートーヴェンの音楽に激励される。だから僕は僕自身のために美しいものを作らねばならない。「自己表現」なんてくだらないもののためではなく、独りで立っているために。

 追記:これも自分について考えていて言葉になったことだが、僕の基本的な行動原理は「必要だと感じたことをやる」というものだ。必要だからやるのではない。また楽しいからやるとか利益があるからやるとかでもない。自分を動かすのはある種の義務感だ。

つまらない箱庭のこと

 村上春樹『ノルウェイの森』をぱらぱらと読み返していた。永沢がワタナベ(と自分自身)を評して「自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ」と言っていて、それが妙に印象に残っている。ありきたりな表現に見えるが、ある種の人間、つまり僕のような人間について、不思議としっくりとくる記述になっているのだ。僕は、僕の主観という鏡に映した世界を、その鏡自体を対象化することによって観測する。世界を「直接」見ることは、自分にはできない。

 僕の場合は、もう一つだけ興味を持てるものがあって、それはたぶん言葉にするなら「超越」ということになる。自分にとって唯一リアリティのあるものがその鏡だから、そいつの由来が気になった、ということかもしれない(とするなら結局ワタナベ君と同じか)。

 『ノルウェイの森』を手に取ったきっかけは、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という対談本を読んだことだった。語られていることに新しいと感じるものはなかったが、彼らがそれを扱う手つきには、やはり並々ならぬものがある、と思う。言葉の領域から微妙にはみ出ているものを、言葉で包み込むように語る。僕がやると、言葉を大量に動員して、かえって分かりづらくしてしまうところだ。河合隼雄『カウンセリングを語る』を読んだときにも感じたことだが、この人は相当に高度なことをさらりと言ってしまうところがある。その良し悪しはともかく、凄いのは分かる。

 芸術家と呼ばれる人たちは、結局のところ皆、ほとんど同じことをやっている、ということが分かってきた。せめて10歳くらいまでにこれを理解していれば、自分は芸術家になったかもしれない。しかしあまりに遅くなってしまった。

 箱庭療法の話で、健康な人の作る箱庭(やその他の作品)はだいたいつまらないのだ、ということを河合が言っていた。いくら精密で凝っていようと、力に欠けるのだという。僕もたぶん、つまらない箱庭を作るタイプの人間である。でもあまり健康な人間だとも思えていない。

 幼稚園の父の日の催し物で、父親の絵を描いてプレゼントしようというものがあった。当時の自分は、現実を可能な限り正確に写し取ることに執心していて、絵における「輪郭線」と敵対関係にあった。そんなものは現実にはなく、単に明暗の差があるだけなのだ。ウルトラマンティガの主役の写真の上に白い紙をしいて、透かして顔をなぞり書きしたとき、現れた線画には、なんというか、魂がなかった。嫌な気持になったのを覚えている。そういうわけで、絵を描くことには何か微妙な部分が存在するということを、幼い僕は少しだけ感じ取っていたのだが、しかしそれを探究し技術に昇華するだけの力は僕にはなかった。先達から教わる機会もなかった。だから父の日の当日、違和感だけを抱えながら、僕は周りの子供たちが描く絵を観察して同じようなタッチで描いた。技術がなくてもやれるだけやればよかったのだ、と今では思うのだが、当時から僕は「失敗する」ということを妙に恐れていたのだ。かくして僕は人生初のつまらない箱庭を作った。いや、もっと以前からそうだったのかもしれない、記憶にあるのがこれが最初というだけで。

 僕がルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを他人だと思えないのは、彼もまたつまらない箱庭を作る種類の病人だと確信しているからだ。

 しかしこういうのはもう、いい加減にやめにしようと思う。このままやっているとつまらない箱庭の裏側で重要な基部が腐り落ちそうな気がする。すでにだいぶ傷んでいるかもしれない。完全に腐らせてしまう前に、僕は面白い箱庭を作る種類の病人に戻らなきゃならない。これがさしあたり三十代の目標ということになる。

0110

 この世に生を受けた人間がまずはじめにやらねばならないことは、世界に合わせて自分の形を整えることである。自然法則から服の好みに至るまで、世界は既存の区画線に満ちている。その区画線に、自己の内の区画線を一致させること、それができて初めて、人は世界の中で己の生存を維持できるようになる。しかし、世界と自己のこの関係は、どこかで反転させなければならない。本当の意味で生きることを望むのであれば。所与の区画線の内側で生きている限りでは、あらゆる達成は、それがいかに希少なものであろうと、可能性の空間の中ですでに予定されていたものに過ぎない。それは人をお金持ちにするかもしれないが、独創性ではない。所与の区画線の破壊と再構成こそが、創造という言葉の唯一の意味である。そしてそれは人間の専売特許ではない。むしろ宇宙の発展は創造の歴史であり、そのある時点のスナップショットを、われわれは普遍的秩序と思いなしているだけなのである。このことを確認するためには、人間は発狂することができるという事実を思い起こすだけで十分だろう。さて、この宇宙的営みの中へ、一個の人間として乗り込んでゆくためには、世界を自己へと引き寄せるほかあるまい。自己の概念もまた、所与の区画線に含まれるものであるから、引き寄せる先の自己こそがはじめに刷新されねばならないのは当然の帰結である。したがってそれは、純粋な混沌である。目的地のない船出である。しかしその偶然性は、航海の果てに、そしてひとつの名のもとに、必然化されなければならない。新しい区画線に結晶しなければならない。以下抹消。

 「宣言」を書くことの楽しさというものがある。でも読み返すのは最悪。