Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(27)

 第50節。原要素についての議論の続き。

それでは、要素については、存在するとも存在しないとも言えない、と言うのはどういうことのなのか?

 この問いがそもそもどこから出てきたのかというと、第46節の『テアイテトス』の引用である。「それ以外の規定は、それはある、というものであれ、それはない、というものであれ、不可能なのだ」。この問いに対する一つの答えは、「存在するということが要素間の結合のことであるならば、ある要素の存在について話すことはナンセンスである」というものである。だがこの答えにわれわれは満足できない。というのも、

だが我々は次のように言いたくなるのだ。要素が存在する、と言えないのは、そもそもそれが存在していなければ、それを名指すことすらできないだろうし、それについて何かを言ったりもできないだろうからなのだ、と。

 名指すことができるのであれば、それは存在していなければならない。だから、「要素が存在する」は同語反復である、ということだろうか?要素とは存在するものであり、存在しないことがあり得ないようなものであり、ゆえに「要素が存在する」と言うことはナンセンスである。そのような特異な在り方をする原要素とは、神秘的な性質を帯びたものに違いない。

 この誤解を解消するために、ウィトゲンシュタインが持ち出すのが、メートル原器の例である。それは「長さ一メートルである、とも、長さ一メートルでない、とも言えない」わけだが(その意味で「存在するともしないとも言えない」要素とパラレルである)、これはなんのことはない、「メートル法を用いて長さを測るというゲームでのこのものが果たしている特別な役割の特徴を述べたに過ぎない」のである。

 このようにAであるともないとも言えないような対象の特異性は、それが記述されるものではなく、記述のための道具だからだ、と表現される。

存在しなければならないかのように思えるものとは、言語の一部なのだ。それは我々の言語ゲームにおける範型(パラダイム)、すなわちそれとの比較対照が行われるものなのだ。そして、このことを確認することは、重大な意味を持ちうるのだ。しかし、それでもやはり、それはあくまで我々の言語ゲーム――すなわち我々の表現方法――に関する確認である。

 最後の但し書きが気になる。「表現方法に関する確認である」とわざわざ書いているのだから、これは、この確認が表現方法以外の何かに関する確認であるという誤解を退けるためのものだろう。素朴に考えるなら、表現される側に関する確認ではないということだと思うのだが、その理解でよいのだろうか?つまり、存在しなければならないかのように思われるものは、何か特別な性質を(言語ゲームから独立に)持っているがゆえに言語の一部に採用されているのではなく、それが言語の一部であるのはあくまで表現のレベルで決まっている話なのであり、違った表現形態もまた同様にありうる、ということ。書いているうちにこの理解でよい気がしてきた。