Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

哲学探究を読む(26)

 また前回から日にちが開いてしまった。誰に対しての言い訳かわからないが――というか言い訳とは本質的に自分に対してするものである――書いておくと、去年から職場(現時点基準だと前職)の人たちと『青色本』読書会をしていて、それがまだ続いている。正確には、『青色本』の前半、つまり「語の意味」にまつわる議論を読んだあとに、ちょっと休止期間を挟んで(転職等でてんてこ舞いだったのだ)、永井均『ウィトゲンシュタインの誤診 - 『青色本』を掘り崩す』をいま読み進めているところである。継続的な読書会を主催するのは初めてだったのだが、参加者たちの哲学的才覚?にも恵まれて、それなりに実りある読書会になっている、と思う。少なくとも一人で読むよりも詳細に議論を追えている実感がある。嬉しく思う反面、悔しくもある。スタンドアロンで十全に機能したいというのが自分の信念であるから。


 それはさておき、『探究』の続き。第49節。『テアイテトス』で提示された言語観では、文とは名の複合物であり、名は「原要素」に対応しているということになっていた。この節では「原要素については説明することができず、ただ名指すことができるだけだ」という考えが考察される。

 第48節では、『テアイテトス』的言語観が妥当するような言語ゲームが導入された。その言語ゲームとは、色正方形をグリッド状に並べたパターンを、色名を一列に並べることで記述するというものだった。この言語ゲームにおいて、「原要素」がいかなる仕方で現れるかを観察してみようというのが、この節で言われていることである。さて、ここで原要素とはそれぞれの色名であったわけだから、色名それ自体が単独で現れる場合について見てみよう。例えば「R」(赤)とだけ書かれている場合。この単独の「R」が登場するのは二つの場面が考えらえる。一つは、1x1グリッドの記述であるという解釈。この場合の「R」は文であり、要するに「自明な複合物」であって、「原要素」が剝き出しになっているわけではないから、あまり問題ではない。もう一つは、「R」という記号の教示がなされている場合。このとき「R」は記述ではありえない、というのもその準備をしている段階だからである。もちろん、教示している側(がいるとすれば)にとっては「R」は の記述かもしれないが、しかしとはいっても、この教示という行為は、先に定義された言語ゲームの一幕ではありえない。こうした状況では、「R」という語はいかなる記述でもない、それを用いて人は要素を名指しているのだ言えるかもしれない。

だが、それだからこそ、人は要素を名指すことしかできない、とここで言うのは奇妙なことだろう。名指すことと記述することは同じレベルに属する行為ではないのだ。

たぶんこういうことだ。原要素に対しては名指すことしかできないと人が言いたくなるのは、複合物については記述することも名指すこともできるという事実との対比においてである。その前提としては、原要素と複合物が言語のなかで対等であるという考えがある。それゆえに原要素の特殊性が際立つように思われるのだ。しかし「名指しとは記述の準備」であり「言語ゲームのいかなる一手でもない」のだと考えるならば、言語ゲームの一手であるところの「文」との対比は意味をなさなく成り、よって特殊でも何でもないことになる。

 と理解したけれど、これは正しい解釈だろうか?

 久しぶりに真面目に読んでみてよく分からなくなってきたのだが、言語ゲーム概念を用いたこれまでの考察は、『テアイテトス』的言語観やアウグスティヌス的言語観を、事実に即さない言語観だとして退けるようなものではない。はずである。むしろ、われわれの言語活動が(仮に)言語ゲームに尽きるのであれば、さまざまな混乱が(解決されるのではなく)解消される、ということを示してみせるのが、ウィトゲンシュタインのやり方である。と思われる。だからこの本でウィトゲンシュタインがやらねばならないことは、あらゆる言語活動が言語ゲームとみなせる(「である」とは決して言いきれないだろう)ことを示すことだ。大きな壁は「規則」と「心」に関係する言語活動であり、したがって『探究』第一部の後半はこれら二つの議論が中心になっている。


 一日かけて10ページくらい読むつもりだったのだが、一節で疲れてしまった。体力と集中力を鍛えなおさないといけない。