Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

自分のこと

 三十歳になって自分という人間について考えることが増えた。昔は、自分という人間をただの《私》の乗り物くらいにしか思っていなかった。とまで言うと言い過ぎかもしれないけれども、この宇宙に一点だけの超越という側面が前に出すぎていて、自分の他の性質にあまり目が向かなかったのである。年を取り、人間たちの中でどうにかこうにか生きていく、ということが問題になってきて初めて、人間としての自分の性質というものが考えるべき対象になってきたのだ。

 それで分かってきたのは、自分は考えるよりも感じる人間だということである。もちろん自分にとって、よく思考するということは重要な課題だったし、自分に思考力がないとも思わないが、しかしある本質的な一点において僕は思考型の人間ではないということに気付いた。それは、僕にとって思考は、判断の直接の材料にはならないということだ。あるいは、世界に意味を与えてくれるものではないということだ。記号を操作し、世界に概念を付与することは、それがいくら巧みにできたとしても、僕が何かを選ぶ根拠にはならない。僕の選択の地盤となりうるのは、つまり世界に意味を与えうるのは、結局のところ「感じ」なのであり、思考はそれを変換したり接続したりはするが、思考それ自体が新しい地盤になることはないのである。だから、あまりに多層化された思考は、地面から離れすぎたひょろひょろの木のように、力を失ってしまう。思考を本当の意味で使いこなす人たちは、思考の結果生まれた概念を新たな足場として、無限に登ってゆくことができる。そういう人がいることが分かってきた。しかし、僕はそうではないのだ。

 では自分は何をして生きるべきか。思考が僕を支えないのであれば。たぶん、美しいものを拠り所にするのが良いのだろう。美は僕を支えうる、気がする。芸術のことはよく分からないが、美しいと思うものはあり、それが身近にあるのは心強いことだと感じる。青空の神秘を見上げるために僕は生きているのであり、数日前にノートに殴り書きした図がなんだかイケていることに活力を与えられている。筋の良い抽象によって切り開かれた景色の透明感が僕に思考することを求め、ベートーヴェンの音楽に激励される。だから僕は僕自身のために美しいものを作らねばならない。「自己表現」なんてくだらないもののためではなく、独りで立っているために。

 追記:これも自分について考えていて言葉になったことだが、僕の基本的な行動原理は「必要だと感じたことをやる」というものだ。必要だからやるのではない。また楽しいからやるとか利益があるからやるとかでもない。自分を動かすのはある種の義務感だ。