Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

つまらない箱庭のこと

 村上春樹『ノルウェイの森』をぱらぱらと読み返していた。永沢がワタナベ(と自分自身)を評して「自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そういうことにしか興味が持てないんだよ」と言っていて、それが妙に印象に残っている。ありきたりな表現に見えるが、ある種の人間、つまり僕のような人間について、不思議としっくりとくる記述になっているのだ。僕は、僕の主観という鏡に映した世界を、その鏡自体を対象化することによって観測する。世界を「直接」見ることは、自分にはできない。

 僕の場合は、もう一つだけ興味を持てるものがあって、それはたぶん言葉にするなら「超越」ということになる。自分にとって唯一リアリティのあるものがその鏡だから、そいつの由来が気になった、ということかもしれない(とするなら結局ワタナベ君と同じか)。

 『ノルウェイの森』を手に取ったきっかけは、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』という対談本を読んだことだった。語られていることに新しいと感じるものはなかったが、彼らがそれを扱う手つきには、やはり並々ならぬものがある、と思う。言葉の領域から微妙にはみ出ているものを、言葉で包み込むように語る。僕がやると、言葉を大量に動員して、かえって分かりづらくしてしまうところだ。河合隼雄『カウンセリングを語る』を読んだときにも感じたことだが、この人は相当に高度なことをさらりと言ってしまうところがある。その良し悪しはともかく、凄いのは分かる。

 芸術家と呼ばれる人たちは、結局のところ皆、ほとんど同じことをやっている、ということが分かってきた。せめて10歳くらいまでにこれを理解していれば、自分は芸術家になったかもしれない。しかしあまりに遅くなってしまった。

 箱庭療法の話で、健康な人の作る箱庭(やその他の作品)はだいたいつまらないのだ、ということを河合が言っていた。いくら精密で凝っていようと、力に欠けるのだという。僕もたぶん、つまらない箱庭を作るタイプの人間である。でもあまり健康な人間だとも思えていない。

 幼稚園の父の日の催し物で、父親の絵を描いてプレゼントしようというものがあった。当時の自分は、現実を可能な限り正確に写し取ることに執心していて、絵における「輪郭線」と敵対関係にあった。そんなものは現実にはなく、単に明暗の差があるだけなのだ。ウルトラマンティガの主役の写真の上に白い紙をしいて、透かして顔をなぞり書きしたとき、現れた線画には、なんというか、魂がなかった。嫌な気持になったのを覚えている。そういうわけで、絵を描くことには何か微妙な部分が存在するということを、幼い僕は少しだけ感じ取っていたのだが、しかしそれを探究し技術に昇華するだけの力は僕にはなかった。先達から教わる機会もなかった。だから父の日の当日、違和感だけを抱えながら、僕は周りの子供たちが描く絵を観察して同じようなタッチで描いた。技術がなくてもやれるだけやればよかったのだ、と今では思うのだが、当時から僕は「失敗する」ということを妙に恐れていたのだ。かくして僕は人生初のつまらない箱庭を作った。いや、もっと以前からそうだったのかもしれない、記憶にあるのがこれが最初というだけで。

 僕がルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを他人だと思えないのは、彼もまたつまらない箱庭を作る種類の病人だと確信しているからだ。

 しかしこういうのはもう、いい加減にやめにしようと思う。このままやっているとつまらない箱庭の裏側で重要な基部が腐り落ちそうな気がする。すでにだいぶ傷んでいるかもしれない。完全に腐らせてしまう前に、僕は面白い箱庭を作る種類の病人に戻らなきゃならない。これがさしあたり三十代の目標ということになる。