Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0302

 言葉はモノである、と前に書いたけれども、この感覚はより一層強くなっている。PかつPならばQであると言われれば、Qであることも認めねばならないような気持ちになるけれど、しかし言葉の上ではどうとでも言えるのだ。ただわれわれがそのような推論を妥当に感じるよう条件付けられているのに過ぎない。そういう意味で、言葉は壁に似ている。壁は高く強固で決して乗り越えられないように見えるけれども、しょせんは物理的実体であり、壊すことができるかもしれないし、迂回することもできるかもしれない。空を飛んで越えてしまっても良い。それが〈原理的に〉禁止されていないかぎりは。「正しい推論」を見せられたとき、われわれは壁のあまりの強大さにその向こう側へゆくことを諦めてしまうのである。ルイス・キャロルパラドクス、あるいはウィトゲンシュタインのパラドクスが示唆しているのは、つまるところこういうことだと理解している。もちろん、論理が無意味であると言いたいわけではない。それらはきわめて有用な迷信なのである。