Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0228

 なにかやっている実感が欲しくて本を読んでいます。新宿の紀伊國屋書店に行って立ち読みをしていました。

 数学ガールフェルマーの最終定理の話を読みました。フェルマーの定理と言うよりも、どちらかと言うと群論の話で、素数を法とした剰余類が体になる話とか、ほへーっとなりました。高校数学で合同式はちょびっとやったけども、計算テクニックくらいにしか思っていなくて(蒙昧さをお許し下さい)、それが一つの演算としての諸々を満たしているということに少し感動しました。抽象化されてあらわれる本質的な構造に注目する、ということ、数学の美しさだなと思います。楽しい。立ち読みだったため余り計算を追えず、ちょっと残念ですが、まあ今度は普通の参考書で勉強してみようと思います。Semanticsを与えられれば、多少やり口は見えるのだ。覚えていることから自分なりに話を組み立ててみるのも勉強にはなるかもしれない。

 それから、浅田彰の構造と力(構造繋がり?)をこれもまた立ち読み。父が大学生の頃流行った思想家ということで、名前はよく聞いていたのですけども(それもどうなのか)、この本はフランス現代思想のチャート式的参考書であるというような書評を見かけ、思想というものについてよく分からなくなっていた僕は読んでみることにしました。よくわかりませんでした。一応は始めから終わりまで目を通したのですが(立ち読みということもあって多少走りがちではあった)、何を言っているのか、何が問題とされているのか、理解出来ません。つまりこういうことです。例えば、布団とは何かという議論の中で、寝具であること(本当はこれもそうなのだが)以上に、神の国の地上における顕現であるとか言うわけです。そしてそれを元に、議論が展開されてゆく。ここで思うのは、布団は布団だろう、ということなのですが、思想というものは概してそのようなものである、思われたのです。何も言っていないのではないか、これこそ、言えただけなのではないかと。
 読み終わった後、憤然とした面持ちで新宿の街を歩いていると、少し閃くことがありました。
 「私が生み出すもの、それは新しい比喩だ」というアレ。
 比喩表現には、もちろん意義(意義とは?)があります。ある関係を、具体的なシチュエーションを用いて浮き彫りにする。それとも人間は、例え話以上のお話を出来ないことになっている。ここで、思想というものが比喩しようとしているものを考えてみると、その比喩があまりにも現実離れしているように思われる理由が分かるのではないかと、考えてみたのです。それらの比喩が、直示的でない理由。
 そうして僕が思ったのは、一つの社会のモデル(そうこれはモデルなのです)が、直示的な比喩のみによって構成されている必要は特にない、ということでした。これはある抽象化の仕方であって、抜き出されているのは構造であり(!)、それらがどのようなお話によって組み立てられているかは、別段問題にはならない。そこで神だとか倫理だとか、そういう雲をつかむような用語が使われていた所で、それらが比喩するものがある構造体を指し示している限り、そこにはわかりやすい、わかりにくい以外に違いはないのだ、ということ。そしてその比喩の適用可能性の検討が重要な課題であること。それが、今回僕が思ったことでした。
 そう考えることで、現代思想が何を言おうとしているのか(正確には何を言うことが出来るのか(何が言いたいかはまだちっともわからない))、朧気ながら見えてくる気がします。その射程というものを実感した、というのか。結局、余り難しいことは考えずに、ふーんと読み進めてゆけば良かったのかな、ということになります。回り道した感が凄いけども、少し興味がわきました。もう少し何か読んでみようか。

 夕方はサークルのボイトレ。声の出し方がなんとなくわかってきた感じ(この前ブレイクスルーを経験したのだ)です。維持できると良いな。

 帰って来て、疲れていたのですぐ寝てしまいました。朝早く起きてこれを書いています。今日も本屋に行こうかな。図書館で借りたものも読まねば。