Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0605

 大学に行って、実験。なかなかうまくゆかず、かなりの時間がかかってしまいました。かなしい。あまり頭の調子が良くないです。どんどん頭が悪くなっている気がする。うう。

 明日は歌の練習をせねばなりません。それから、相対論の予習もしてゆかねば。(ついていけなくなってしまう)


 ある対象について(人間が一般的にするような)思考が可能であるためには、その対象を自分のうちに写しとる必要が有るように思います。写しとるという語の意味するものは様々ですが(例えばカメラはどうか)、とりあえずどんな段階を踏むにせよ(例えば赤色"のみ"検知するセンサなどでも良い)対象を抽象化し、他の対象との関係を論じられるようする必要がある。例えば光を受けてブザーを鳴らす機械は、世界から光を抜き出して、それについて予め定められた出力を行なっており、そのプロセスを一種の思考と呼ぶことは不合理ではないと思います。
 ところで、人間程度の複雑さを持つ構造物が自然環境を相手に自らを維持するためには、どの程度の思考が必要かというと、自分を例にとって見ても割と膨大なものになるはずです。ではその為には、どの程度正確に(精緻に)世界を写し取れれば良いだろうか。たぶん、結構な精度が必要だ、と思います。
 それを具体的に構成する手段として、一体どのようなものが考えられるだろうか。単純なのは、予めあらゆるものの認識の仕方が与えられているというものだけども、それは考えづらい。そうすると、小さな単位を組み合わせて、より大きなゲシュタルトを構築するという方がうまいやり方でしょう。ドットの集まりがイメージを成すように。そういう意味で、生物の知性が沢山の神経の集まりによって実現されているのは、とても理にかなっていると思うのです。点に写しとることは、本質的に近似を与えるから。1個の点は必要十分な小ささを備えていると思われるし、逆に、例えば計算機で方程式を導くようなやり方では、全ての計算が可能である道理は無い。そもそも認識した個々の要素をより高次の概念へと結合する仕方が考えられないのです。(つまり与えられている必要がある) だから、人間が備えている知性を計算機で実現するためには、点と点の繋がりを全て計算する二度手間をとるか、全ての脳の機能の代替物を組み合わせて知性を構成するしか無い。後者の方が計算効率は良いはずだけども、その為には知性についてより深い分析が必要となるだろうし(いつまでかかるか分からない)、本質的には人間を超えはしない。(そもそも面倒くさいじゃないですか) だから僕は前者のアプローチ(知性を発展させるための初期条件、法則を適当に与えること)に希望を見出していているわけです。
 適当に結合や分離、信号の送受信の法則を与えられた点の集まりに、身体を取り付ける。点の中の幾つかは例えばある筋肉を収縮させる働きを持っているなどして、それが信号を受け取ればそのように動く。点たちは勝手気ままに回路を組み上げたり壊したりしながら、身体をめちゃくちゃに動かし始める。それをこちらは評価して、フィードバックを与える。すると点の連なりはそれを評価関数として、適切な神経の組み合わせを模索してゆく。(全て繋いだあとで不必要な部分を切ってゆく、というのが良いように思う。(しかしその為には、点同士の結合が、どのような運動を引き起こしたかを、点自身が知っている必要がある。(具体的には、結果としての身体の動きから、それを最も効率よく実現する回路のみを残すような仕組みが必要)))すると、その個体は、例えばまっすぐ歩けるようになるかもしれない、転がることを覚えるかも知れない、わけです。これが、遺伝的アルゴリズムによる歩行の学習なんかと違うところは、最初から歩くことを前提として与えられて学習が始まるのでなく、適切な入力と評価関数とが与えられていれば、様々な状況に対して全く同じ仕方で学習し処理が出来るという点です。視覚とか、空腹とか。
 人間の脳はみんな似たような機能の配置をしているというけれども、それは遺伝的要因にのみによるのではなくて、知覚された情報がまず脳のどこに伝わるのかというのが先にあるように思うのですよね。身体性の概念をもっともっと推し進めた先。誰か実験してくれないものか。