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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

人が怖いということ

 精神医学の講義で、認知再構成法というものの存在を知ったのだけれど、それについて漠然とした歯がゆさを拭えないので、書きながら考えてみようと思う。ただ何かしら意味のある言葉を書き連ねてやりたいという気持ちもある。むしろこちらが本懐かもしれない。上手に説明できる人間になりたい。
 その認知再構成法とは、その講義では、認知行動療法の一つの技法であり、ネガティブな想念を引き起こす認知のスキーマを自覚させ、さらにまた、認知した現象について他の解釈も考えられることを示すことによって精神的な不安を解消するものとして紹介されていた。例えば、道端ですれ違った知り合いが自分の声掛けを無視したというような状況で、普通なら自分は嫌われているのだと自然に考えてしまうところを、その時相手は音楽を聞いていて自分の声が聞こえなかったんじゃないか、などと言って安心させるという感じで。(どうでもいいけど僕は道端で知り合いを見かけると全力で避けるのでこの例には当てはまらない。とはいえ似たような経験はもちろんある。)でもこれって、実際のところどうかっていうのは不明なままだよね、というのが、講義を聞きながら思ったことだった。
 考えが後ろ向きにゆきがちなのは問題であるとはいえ、呼びかけた相手が自分を無視したという現象に何らかの理屈を付ける必要が人間にはあるだろうと思う。そこで短絡的にポジティブな方向の理由を採用することは、酸っぱいブドウの話みたいに、合理的でない判断を強いられている気がして気に食わない。愚かであることを推奨されている感じがするのだ。そもそも第一、実際に相手が自分のことを無視しているんだとしたらどうするんだろう、という考えが頭をよぎる。その滑稽さたるや想像したくもない。
 そんな風に考えてくると、対人不安というのは、相手が自分のことを嫌っているかもしれない、という言葉で形容されるものではなく、むしろ相手がなにを考えているのかわからない、ということに尽きるのではないか、となる。この違いはずいぶんと大きい、ように僕は感じる。相手が自分を好いているかもしれない、という考えだって不安の種になりうるのだ。人が怖い人たちは、人にネガティブな気持ちを向けられることよりも、自分の振る舞いが正しくないという事態を何より恐怖しているように感じる。単に僕や僕の周囲の人達に自閉的な人間が多いからそう思いがちなだけかもしれないけれども、でも少なくとも僕のような人間にとって、こう考えることも出来るよね、という慰めは意味を持たないのだ、ということはわかってほしいかなとも思う。
 状況を完璧に把握できていないということはストレスなのです。そして人の気持ちは目に見えない。だから人と共に何かをする場面では必ず、自分の振る舞いがどう他者に影響を与えているか、理解されているかということにセンシティブにならざるを得ないのだけど、僕は人の気持ちを推察するのが苦手だから、いつだって失敗に怯えることになる。僕の振る舞いは愚かしくないだろうかと、他人を傷つけるとか人から嫌われるかとか以前の問題として。
 究極的な解決は、他者と関わらないか、他者の存在のレイヤーを自分の中で一段引き下げることだ。所詮他人は他人だと割り切れればそれは強いだろうなと思う。でもそれってひとりよがりだし、出来るならばやっぱり多くの人に好かれたほうが良いに決まっている。戦略的にも、心情的にもさ。

 ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです。ぼくわこれから行くところで友だちをいっぱいつくるつもりです。(アルジャーノンに花束を)

らしいです。なかなか難しいな。