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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0319

 昨日は九時くらいに眠ったのですが、昼夜逆転した僕の身体はそれをお昼寝だと理解したようで、二時過ぎくらいに目が覚めてしまいました。中途半端に頭もすっきりしてしまって、なかなか寝付けなかったのでつらつら考え事をすることに。

 なぜ我々の思考や言語はこれほど見事に世界を記述しているよう見えるのだろうかという問いがある。それに対して、我々はそのように進歩してきたからだと答えることはある意味正しいけれど、しかしそれはそのような問いを発する人々の欲している答えではない。それは事実であって説明ではないと言いたくなる気持ちが存在する。
 現象を理解するとは、その現象を"再現"するために必要十分な関係を抽き出してくることだろうか。だがその再現が現象を再現しているとする根拠はどこにあるのか。現象をある現象と見做すこと自体が、その過程に何らかの再現を含むのではないか。
 つまりこういうことである。例えば、バクテリアの体を調べ、その活動を(十分な精度で)コンピュータの上でシミュレートしたとする。そしてその活動が現実のバクテリアのそれと十分に似通っていれば、我々はバクテリアを理解できたとして良いのではないかと言いたくなる。だがその仮想のバクテリアが現実のバクテリアの再現であることの根拠は、我々がそう判断しているという以上のものではない。ここで言われている理解とは、我々がある現象をある現象であると見做すのに必要な再現精度の下限を明らかにしたことである。
 再現ということを考えれば、僕らの脳の認知活動も現実の再現ではある。光や音やそれ以外の刺激から、周囲の環境を心のなかに再構築している。そしてそれには常に精度的な限界が存在する。このことを敷衍すれば、なぜ我々はこれほどうまく世界を記述できているのかという問いはそもそも同語反復であるのかもしれない。それゆえ本当に問うべきは、何故神はこれほど見事に(我々を含めた)世界を記述できているのかということになるのではないかと思う。そしてそれはもはや答えの用意されているような種類の問ではないように見えるのである。

 夕方から友人SとThe Imitation Gameを見にゆきました。良い映画だったと思いますが、期待していたほどではなかった感じです。まあそもそも物語的ではありえない人の人生を一つのお話にまとめるのだから、色々と無理が出るところはあって当然なんだけれど、史実を結構変えてしまっているところと、あと彼がいかにもステロタイプ自閉症スペクトラムとして描かれているのはなんかなーとなります。マンガで分かる自閉症スペクトラムかい、みたいな。それから、こういう映画だとちょっとしたひらめきがすべてを解決に導く場面というのがよくあるのだけど、ああいうめっさ賢い人達の研究にそういう場面があるのかなっていうのは純粋に疑問です。あの程度のアイディア、彼らがちょっとまじめに考えればすぐ思いつくはずで、むしろそれをいかに実装するかっていうのが研究の肝だと思うのだけれど。こういうのは昔プロジェクトXを見ながら思っていたことでもあります。まあそんなのドラマに仕立てたところで誰も理解できないから仕方ないっちゃ仕方ないのだけど。
 全体として、普通というのが前提された上でチューリングの異質さが肯定されるという筋書きになっていて、そう、これはチューリングのようではない人向けの映画なのです。考えてみれば当たり前のことなのだけれど。そしてそうした視点そのものが、チューリングを追い込んだ当のものなのではないかなとも思う。けれどもまあ、こうしてチューリングの業績が曲がりなりにも広く知られるようなること自体は良いことなんじゃないかなって気もします。単純なドラマとしてみるなら僕はこの映画を結構楽しんだし。カンバーバッチの演技も良かったし。
 Sと話していたことですが、フォン・ノイマンの生涯を映画化したらどうなるのか気になるところではあります。アクション映画テイストになるのではないかと予想。