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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

言葉との戦争

 仏教の唯識の考え方に触れて少しばかり考えてみたのだけれど、結局はこれも世界の構成要素を仮定する試みの一つなのであって、他の似たような考え方から明晰な仕方で区別できるようなものではない。まあ物質のパターンから固有性のある認識が出てくるような気はしないから、認識が世界を描いているのだと考えたほうがなんとなくおさまりは良いように思うけれども、畢竟それも説明の一つに過ぎず、またそれとは逆に、仮に素粒子の組み合わせが認識を生じる仕組みが理解されたところで、今度はその素粒子の実在にはてなを投げつけたくなるに決まっている。これはいわば僕の言語の暴走なのだ。言語がその記述可能な領域を超えてなにかを記述しようとした結果なのだ。もちろんある種の信仰でもって言語を(一時的に)いなしてしまうことは可能だけれど、しかしそれもまた言語にとっては無根拠なもの(根拠などあった例はないのだが)なのだから、言語はその隙を突いてくるだろう。この言葉たちを恒久的に黙らせるには、言語の限界を言語それ自体の記述能力の範疇で示すほかない。それができてはじめて、僕は安心して何かを信じることができるようになるだろう。