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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

確率のこととか

 世界が相対的なものなのだとしたら、世界を構成する最小の粒はなんの記憶も貯めないのだろう。あらゆる情報は粒と粒の関係の裡に蓄えられる(かのように見える)。だからその粒が何らかの運動(それはただ生成と消滅のみなのではないかと思う)をするのだとすれば、それは確率的であるとするほかに言いようがない。因果を司るものたちは因果的な存在ではあり得ないのだ。そして彼らこそがこの世界の究極の自発性でもある。

 確率についての気持ち悪さとは、世界がものごとを記憶していて、帳尻を合わせようと画策しているという像から湧いてくるように思える。例えばコイン投げにおいて表と裏が出た回数が記録されており、それが無限の試行の果てでは同じくなるように世界が調整しているというように。この像は本質的には次の像と同じである、と僕は思う。水槽に水を入れると、半分の水は水槽の右半分に入るという像に。もちろんこれは上述の気持ち悪さを根本的に解決するものではあり得ない。ただ、もし確率的事象を気持ち悪く感じるのであれば、その人は世界の全てを気持ち悪がらねばならないということである。そして確かにこの世界は気持ちが悪い。

 計算機上に実現された仮想空間に生きる知性があったとして、そいつにはソフトウェアとハードウェアの区別がつかないだろうというのが、僕らが直面している問題なのではないか、ということを考えてみたり。