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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0903

 例えば一キロくらいの長い棒の端をお腹に押し当てて、もう片方の端を金槌で叩いてみたとする。衝撃は棒を伝ってお腹に及び、僕は痛い思いをする。このとき痛かったのはいったいどこなのだろうか。常識的に考えればお腹だが、棒の先が痛みを感じたと考えることも一応は出来る。同じようにして、今度はその金槌で自分の人差し指を叩いてみる。僕はまた痛い思いをするわけだが、このとき痛かったのは人差し指なのだろうか、それとも人差し指からの信号を受け取った脳なのだろうか、はたまたそれ以外の何かなのか。
 感覚こそが私なのだと言ってみたとして、身体を抜きにしては私はありえないように思わえる。それはある意味当然なのだけれど、そうなると身体とはいったい何かという問いが持ち上がる。いったいどこまでが身体なのか。最近の僕の頭のなかでは、人間というのはこっからここまでが私ですという風に主張するような現象なのであって、しかもそれはなんら本質を伴わないものである。世界を小さな粒たちの法則的振る舞いに還元するなら、身体とその外側を区別するようなものは存在しない。皮膚は単なるスイッチにすぎず、さっきの長い棒以上のものではない。指を叩かれると脳の一部を殴る機械。そしてその脳の一部も何かを殴るスイッチになっている。何を書いているのか分からなくなってきた。
 "何か"が何かを感じているというモデルを捨てねばならないだろうとはなんとなく思っている。私が在るのではなく、「私が在る」という認識が在る。私が痛みを感じているのではなく、私の痛みがある。そしてそれは私のものでもなんでもない。叩かれた長い棒の端が痛みを感じている。最近気づいたのは、右手の感覚と左手の感覚は比較できないということだ。もちろんそこに感じている内容は比較できる。でも、その2つを取り違えることは"原理的に"ありえない。右手と左手を取り違えることはあったとしても。それならば、僕の右手と左手は、まったく別個に痛がっていると考えてもいいんじゃないか。蹴られた石ころが痛がっているというのと同じような意味でさ。
 物質をあるパターンに並べると突然意識が生じるみたいなそういう話はあまり信じたくないのだ。宇宙はもっとシンプルなはずだ。核融合を起こすためにものすごく精密な道具が要るからといって、そこで起こっていることはたぶん単純だ。だから意識なんてものが宇宙に本質的に存在するだなんて考えたくない。だんだん支離滅裂になってきたなこれ。何が言いたかったのだったっけ。
 そうだ、問題は、痛みのような感覚にどうして「私の」という形容が付くのかということだった。指先が勝手に痛がっていれば、あるいは脳の一部が勝手に痛がっていればよかったはずだ。それがどうして私のものとなるのか。身体に本質などないくせに、どうして一個の私なんてものが作れるのか。
 痛みというのは、もしかして記憶なのか。記憶というのが一個にまとめられているから、「私の」記憶ということになるんじゃないか。右手の痛みと左手の痛みが同じく「私の」ものとして感じられるのは、その2つの痛みが同じ一つの日記帳に書かれたからなのではないか。リアルタイムに書かれ読まれる日記帳。だがそれを読んでいるのは誰なのか。それを読み返すことすらも日記に書かれているのか。いやもちろんそうなんだろう。そうでなくては、人格というものが成立するわけがない。多重人格者は意識が複数あるのではなく日記帳を複数持っている人のことだ。不思議なのは、日記帳が「実感」を伴っていることだ。日記帳はたぶん、耳や目や皮膚への入力に働きかけ、追体験するようにして読まれる。日記を読むことと現実の体験との間には大した違いはない。そしてその経験もまた日記帳に書き込まれるのだろう。そうした仕組みによって人格が作られている、あるいは別の仕組みだったってかまいやしない。だがそれは、人格生成器一般の仕組みであって、それは<これ>ではないんだ。<いまここにあるこれ>ではまったくない。ええと、また頭がこんがらがってしまった。

 認識は世界の仕組みであると言いたいのだ。だが僕らの認識は、世界の仕組みであるというには少し大きすぎる気がする、というのが引っかかっていることなのだ。<私の痛み>なんて複雑なものが世界にはじめからあるとは言いたくない。それは魂の存在を信じるようなものだ。だから、痛みの素みたいな極小の何かが寄り集まって私の痛みをつくってくれるのでないと困る。だがその寄り集まり方が特定のパターンでなくてはならない、というようなことはあってほしくない。パターンはあるものではなくて見いだされるものだ。なので、例えば指からの痛みを受信した脳内金槌が特定の痛み粒子をぶっ叩いて痛みを発生させる、みたいな構図を考えている。だから右手の痛みと左手の痛みは別物なのだ、みたいな。でもそれじゃあなんでその2つの別々の痛み粒子の発生させた痛みが私のものということになるのという話になる。同じ日記帳に書かれているからだ、というのは今の話ではうまくいかない、気がする。痛みが宙に浮いてしまう。ぐるぐる。
 よく分からなくなってしまった。