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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

言葉とか

 言語・論理がなぜ哲学の問題になりうるのかわからなくなりつつある。「名とは何か」とか「なぜ言葉は世界を記述できるのか」とか「論理法則とは何か」とか、どれも「君がそのように言葉を使っているから」以上の答えがあるような問題ではないのではないか。
 「ものには名がある」のではなく「<それ>の名を呼べ」と命じられた時の返答の仕方(もちろんそれは一通りの仕方ではない!)が存在する。言葉と事物が(何か神秘的な結合によって)一対一に対応する、という考えは間違いである。紙面上の"○"を我々は「円」と呼ぶことも、「インクの染み」と呼ぶことも出来る。あるいは、「紙面の一部」「点の集まり」などとも。そして言語と事物の一対一対応という神秘を一度捨て去ってしまえば、「言語が世界を記述する」ということにもはやなんの不思議も残されていない。なぜならそれは"記述ではない"からである。それは「感想」であり「説明」なのである。絵の素人が絵画を見て感想を述べる場面を想像し給え。彼は頓珍漢な感想を述べている。だがそこに(言語哲学的な)問題があるだろうか?結局のところ、言葉は音や視覚パターンに過ぎず、そこから意味を見出す仕方を各人が持っているのにすぎないのである。
 手で作ることのできる形として「グー」「チョキ」「パー」のみが知られており、その三つで手の形は全て満たされていると考えられているとしよう。そこである人が「キツネの形」を作ってみせたとする。当然問題が生じるだろう。これまでの手の形理論においては、人差し指と小指が同時に伸びていることがパーの必要十分条件であり、中指と薬指が同時に折れ曲がっていることがグーの必要十分条件だった。ゆえにキツネの形は手の形理論においては<矛盾>である。
 ここで選択肢は2つある。キツネの形など存在しないと言って退けてしまうこと。もう一つは、キツネの形を組み込んだ形で手の形理論を修正することである。人類は後者の選択肢を選び、手の形理論は発展を続け、今ではどんな手の形でもその理論の内部で説明可能だと考えられるようになった。めでたしめでたし。
 だが、前者の方法を選んでならなかったということもないのである。ここで人類が後者を選んだ理由は、キツネの形がキツネの形"として"見えてしまったからだ。だから彼らはキツネの形をパーの特殊な形と呼ぶのではなく、キツネの形として独立させ他の形とのあいだに境界線を引いた。だが実際は、その境界線を引くことに妥当性以上の理由は存在しないのである。逆に言えば、すべての形が網羅されたとされる手の形理論においても、ほんの僅かな指の角度の違いを見出して、これは新しい手の形だということはつねに可能だ、ということだ。
 言語というのは手の形理論に似ていて、世界は手の形に似ている。キツネの形の矛盾性は、手の形理論の不備にあったのではなく、手の形をどのように見るか(その指は伸びていると捉えるのか、それとも曲がっているとするのかなど)に拠っていたのである。
 公理的体系とは、手の全ての可動部分を抜き出してきてそれを公理としたような体系であろう。ゆえにそれにしたがって手が動くかぎり、一般に矛盾は生じないと言える。だが骨折して指が妙なところで折れ曲がったり、訓練によってそれまで動かなかった部分が動くようになるということはありうる。また、「現時点で全ての可動部分が発見されている」ということの証明は不可能である。ある手の形が全く新しい物に見えてしまったら、公理系は修正を迫られるだろう。
 言語についての哲学的問題というものはおそらく、言語になにか絶対的なものを見出したいという欲求によって生じているのである。