Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0125

 ”よく考えると意味がわからなくな”らないものなんてない。「よく考えると意味がない」のではなく「よく考えることによって僕がそれを無意味にした」のだ。

 高校の先輩が数学の未解決問題を解決したことを知ったり、友人の学会発表のスライドを読んだりして、僕もこんなふうに硬くてつるつるつしたものを創ってみたかった、と思いました。僕は柔らかくてざらざらしたものばかり吐き出している。でもこの柔らかさは自分の手にしか扱えないという自負みたいなものもあって。自分の語ってるのは出来損ないの詩なのだ、と思う。そしてそのことに対しどういう態度を取ったものか僕にはわからないのです。「誰も知らないことを誰でもわかる言葉で語るのが物理学だ。誰もが知ることを誰にもわからない言葉で語るのが詩だ。」というディラックの言葉や、サリンジャーの「事物を貫いて流れている、万物を貫いて流れている太い詩の本流」という表現を思い出しながら、いったい僕は何がやりたいのだろう、となっていました。ううむ。

 ノートの大きさに思考を制限されている気がする。友人が「模造紙くらいの大きさのノートがほしい」と言っていたけど、同感。またA3用紙を買ってくるかな。

 「虚無感について」を少し読み進めました。「快楽への意志は意味への意志の欲求不満の代償であるということが、研究によって示されている」「幸福は結果として起こるのである」「これらの行為がどの程度注意の対象とされたか(過剰反省)、あるいは意図の対象とされたか(過剰志向)によって様々な程度の抑圧を受ける」「人間的現象のこうした「……に過ぎないこと」は、実際には、人間の還元主義者の持つイメージの主要な特徴である」などなど、怜悧な洞察に満ちていて楽しい。最近ずっと考えていたことだけれど、「~にすぎない」だって価値観だし、虚しさだって気持ちなのだ。無意味ではなく、負意味とでも呼ぶべきものたち。何をしようと何を考えようと、それは生命、あるいは欲望の枠組みを逸脱するものではない、僕は生きることから逃れられない、ということ。悟りの状態、私と世界との間の境界を取っ払ってすべてが一体となった境地に至れば、もしかすると、「生きていること」という観念からは逃れられるのかもしれないけれど、それでもやっぱり、世界を駆動するなんらかの仕組みの中にはいるのだ。それはすなわち、「起こりうることが起こっているのにすぎない」というふうに物事を認識すること自体が〈起こりうることが起こっている〉ことの部分にすぎないということでもあって、それならばもう世界のマリオネットに徹するのではなく徹するのが良いのではないか、という気分にもなる。結局のところ僕は、これらの複数の世界観のうちどれを選ぶのが良いか迷っているだけなのかもしれない。「一つだけ」と母親に言われてどのおやつを買おうかと迷っている子どもと同じく。「意味への意志」問題の源流はたぶんその辺にある。

 最近風邪を引いたり気力がなくなったりでグダグダしていたのですが、考え事をしたり本を読んだりしているうちにちょっと気力が戻ってきたので、これから本屋にでも行こうかと思います。スピノザ「知性改善論」とパスカル「パンセ」を買いたい。あと、先の先輩の成果が雑誌に載っているらしいのでそれも立ち読みできたら。

 自分を制御することに腐心するあまり、生活によい偶然を取り入れることが出来ていない感じがする。