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Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0412

内省 哲学

 MBTI性格診断を受けるとたいていINTPという結果になる。それって結局どういう性格を指しているのだろうと調べてみるとこんなサイトを見つけた。読んでみるとINTPは内向的思考(Ti)が優勢で、外向的直観(Ne)が補助になっているとある。「正しいと確信を持つには時間がかかり、延々と推論を積み重ねるて確からしさを増してゆこうとします。 それゆえに、正しいと確信するというよりは、間違っているとは考えられない、もしくはより効率的であることが判断の基準になります。(Ti)」「しかし、この知的好奇心は際限がなく、次から次へと関心が移ってしまう傾向にあります。 そのため、漠然とした「予感」の段階で終わってしまうことがあります。 そのときは、明確な結論に至らず、行動の指針を与えることがありません。(Ne)」「頭の中で色々な可能性が駆け巡り、多様なことに興味が沸き起こるので、 ルーチンワークや細々とした手続きを辛抱強くこなすことが困難になります。 しかし、アイデアも新しい可能性もこのような地道な努力によって実現されるものであり、 そうでなければ単なる空想で終わってしまうということに気がつく必要があります。(Ne)」などの記述はまさにその通りだと感じた一方で、僕にとって本当に大切な問題について考えるときだけは、むしろ内向的直観が優勢な感じもする。「内向的直観は、その多様性よりも、イメージの収束性に重きを置きます。」「物事の関連性を見出し、ごく少数の限られた可能性を時間をかけて深く洞察します。」云々。僕の世界観はそうした方針で形作られてきたところがあると思う。というかそうでなくてはなんだかもぞもぞして気持ちが悪く、気持ち悪くない説明を世界に対して与えることは僕にとっての危急の課題だった。こだわりがパーソナリティを凌駕している領域であり、大事にしたいと思う。

 ところでこうした性格分類はいくつかの対立する要素のどちら側に位置するかという分類によって構成されている。もちろんそうした対立は本質的なものではなく、経済的合理性によって抽出されたものに違いない。そのような軸が要請される背景にある社会形態みたいなものについて思いを馳せてみたりする。

 自分の言葉が人工無脳じみていると書いたけれども、表に出したい気持ちなどないのに無理やり何かを出力しているという点では、まさに僕は人工無脳そのものなのだった。MBTIをそこまで真に受けるわけではないけれども、やはり僕は情緒が薄いのだと思う。たぶん、理解や事実を記述することのほうが性に合っている。あまり認めたくはないけれども、これはもう仕方のないことだ。ある程度の努力は続けるとして、ひとまずは自分の得意なことの研鑽に努めようと思う。

 昼からバイト。学習したDCGANとRNNを繋いでimg2txtじみたことを。こんな大雑把な設計でうまくいくのかいな。

 Viparita Karaniというヨガのポーズを知ってたまにやっているのですが、頭に血が回るおかげか少し思考がすっきりする気がする。まあプラセボかもですが気分は大事です。その格好のまま論理哲学論考をまた読み返していて、写像の理論はやっぱりなんだかおかしいのではという思いを強くした。ウィトゲンシュタインの考えに従うならば、たとえばくしゃっと丸めた紙を指差して「これは自動車の像である、というのも色や空間的位置といった論理形式を共有しているし、あるいはタイヤがある(かないか)という形式を共有しているといえるかもしれないのだから」などという人に対して有効な反論ができない気がするのだ。もし彼の主張を認めないのだとすれば、誰にでもそう見える車の模型だって、対象となる自動車そのものではない以上、その像であるとは言えないことになってしまう。「論理形式の共有」という概念も結局は程度問題なのではないか、ということだ。要素命題の概念がブラックボックスになってしまっているのは、こうした問題を避けるためなのかもしれない。だがそれはちょっとずるい気がする。