Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0604

 どうでもいい日記を再開しようと思います。

 体調が悪くて一日ぐったりしていました。全身に無駄に力が入っていて体液の循環が滞っている感じ。折角の休日に勘弁してほしいし、「折角の休日」なんてことを考える自分の生活にがっかりする。休みたいときに休んで働きたいときに働けたら良いと思うのだけれど。きっとそのほうが僕は上手く機能するから。ただ自分にフリーランスはまったく向いていないとも思うので(そういえばINTPはフリーランスになると所得ががっくり下がるというグラフを見たことがある)、適当な組織に属しつつその中で最善をつくすのが現状では最適解なのかなーとも。よく分からん。

 インターネットで「ASDは単語(オブジェクト)よりも文法(語の確率的繋がり)を優先する傾向があり、平均的な知能を持つASD者はアニメのセリフの引用などが多い」みたいな主張を見かけて、自分はわりとそうだなあと思った。会話中に本の一節をそのまま引用することが多いし、(言葉で考えているときは)内容より構文で連想が進む傾向がある。ただし意味にたいして鈍感かというとそうでもなく、そちらはどちらかと言えば視覚と関連が強い。構文と意味の分離。最近はちょっと統合できるようなってきた気もするのだけれど。

 「100色の帽子があり、それを100人の囚人にかぶせる。それぞれの色の数は決まっておらず、すべての囚人に同じ色の帽子が与えられることもありうる。囚人は自分以外の99人の帽子を見ることができるが、自分の帽子は見えないし、一度帽子をかぶせられたら互いに意思疎通を行うことは出来ない。さてここで囚人たちは一斉に予想した自分の色を言う。一人でも正解していれば全員が助かり、さもなくば全員処刑される。帽子を被る前に相談タイムが与えられており、囚人たちは戦略を立てることができる。確実に処刑を免れるには、どのような戦略を立てればよいか」。ここ数日ずっと考えていたのだけどようやく答えがわかった。逆向きにものを考えるのが少しは出来るようになってきたみたいで嬉しい。やっぱ言葉は便利ですね。