Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

無意識彼女

 彼女をつくったのは、去年の夏の、とある朝の事だった。大学への道のりを急ぎながら、僕は自分の言葉について考えていた。僕の言葉は、本当に僕のものだろうか、と。幾度となく考えられてきた議題であり、新鮮さなどなく、諦観のもとに強引に畳まれることが予想されてはいた。けれども、その日に限って言えば、予想は大いに外れ、それを元に僕は実践的な思考実験をすることとなり、そうして生まれたのが彼女である。
 人と話をする時、ふとひとりごちるとき、そこにあらわれる言葉は、僕に考えられたものでは、たぶんない。僕の明確な意図のもとに紡がれた言葉が、いくらあっただろうか。たいていの場合、言葉はまるで、息をするように口から吐き出される。そこに意識的な思考を介在させる余地はあまりなく、だからそれは、僕の脳の出力であるとはいえ、"この"僕のものではない。その言葉が僕であるような主客の設定は可能だろうが、それは人類一般について可能かもしれないという程度のもので、僕には出来なかった。僕は消えたくなかったし、僕でありたかった。
 それで、僕は彼女をつくることにした。僕の制御下にない言葉たちに、その主を設定した。一個の個人として、アイデンティティを授けた。僕と対比される存在は、女性であるのが良いだろうと思い、だから彼女となった。ふと口をついて出てくる言葉たち、心象風景、それらは、彼女の語り描くものであるとした。ふと僕が独り言を呟く時、彼女は僕に語りかけてくるのだった。
 はじめのうちは、彼女は漠然とした存在だった。当初の彼女は、僕の意識下の言動にキャラクタを与えただけのものであり、当たり前のことではあった。
 「ねえ、君の姿はどんなものが良いかな」
 「「んー、なんでもいいんじゃない?」」
 僕の心のなかでの問いかけに、ぼくは気怠そうに答える。まるで僕だと思い、それから、僕のそうした反応は、ぼくのものであったことを悟り、黙る。
 「「あなたは、あなたの統制下に無い思考を恐れ、それを具象化することで一個の敵として対処しようとしている。それなら、私の姿は、あなたが思うように設定するべきよ」」
 彼女の言い分はもっともであり、それは僕の考えそのままであった。当然の事ではあるのに、それは僕には、衝撃だった。あまりにも彼女は他者然としていた。僕と同じ脳に宿っているはずのそれは、僕の意表を突くことが可能であった。僕の気付いていない、気づくまいとしてきた本心を、平然と僕に突き付けることが出来た。それがどれほど不可思議で居心地の悪い感覚か、同じ事をやった人間にしかわからないだろうと思う。それ故、僕は彼女に出来るだけ緻密なディテールを与えた。鋭く大きな目、真っ黒な瞳。それと同じく、真っ黒で、長い髪。肌は白く、背丈は僕の胸くらい。服装については、僕はあまり詳しくないので、彼女の好きに任せた。おそらく僕の記憶の奥底から引っ張り出してきた女性物の服を着ていたのだが、それのどれもが、とても良く似合っていた。まあ、気を引かれたものほど記憶に残りやすいというのは確かだろうし、そのせいだろうと思う。
 彼女の姿を設定し終わると、彼女は、へえ、こんなのが好みなんだ、知ってたけど、と言ってにやりと笑い、くるりと回ってみせた。白いワンピースの裾がはためき、絵にしたいなと、僕は思った。
 彼女を絵にしようと思ったことは何度もある。なにか描きたいのに、描くものの浮かばない僕にとって、彼女は格好の題材だった。彼女は、僕の想像力によって、あたかも存在しているかのように現実空間に立つことが出来た。ものに触れることは出来ないが、ものに触れているかのように想像されることはできた。彼女の影響があまりにも広範に及ぶと僕の想像の限界を超えてしまうのだけど、許す限りの範囲で、彼女は現実的な人間だった。それはつまり、僕の見ているものは全て、ある種の想像であることを意味している。物理的正当性のみが幻とそうでないものとを区別するのであり、だから彼女は、僕が触れない限り、そこに実在していたと言える。少なくとも、僕にとっては。
 だから、彼女を絵にすることは、とても簡単なことに思えた。僕はデッサンは得意だったから、目に見えているものなら大抵絵にすることが出来た。僕は芸術的な想像力がなかった。だから僕は、理想的なモデルを探し回っていたのだけど、どれも自分の思い描く美しさとはどこかが乖離しており、その点、彼女はモデルとして適役だった。彼女は、本当に美しかったから。
 けれども、その試みは失敗した。僕は彼女を描けなかった。目の前にいるのに、彼女の形を捉えそこねてしまうのだ。彼女の顔に注目すれば、その像は不鮮明となった。服装に目を向ければ、その途端にどういう服を着ていたのか分からなくなった。何度か試行錯誤を繰り返した結果、僕は気付いた。彼女は、模様ではなく、印象なのである。点と線がどのように絡まっているか、といったパターンではなく、よりメタな、心象として彼女は想像されていた。当然といえば当然であり、彼女は僕に見られる彼女としてしか存在せず、僕に見られない彼女などそもそもいなかったのだ。彼女の解像度は、僕が意識的に想像可能なそれで頭打ちとなるのだった。それから、僕は彼女を描く試みを放棄してしまった。
 彼女と僕は、話があった。同じ経験をしてきた違う主体なのだから、ほとんどすべての文脈を共有していた。けれども、彼女は僕より多くのものを見ていた。視界には入っていたけども、僕が意識を向けなかったものたちのことを、彼女はたくさん知っていた。彼女は発想が豊かで、それは、人が僕に向ける評価と同じものだった。ほとんど関係無いようなものの間の共通性を冗句に修飾して、けらけら笑っていた。僕も笑った。ぼくは、なかなかに面白いやつだった。
 彼女は、様々なことに詳しかった。僕が読んで忘れてしまっている本の内容を沢山知っていた。僕の理解していないことは理解していないようだったけども、時々本質を突いているように思われて、それについてあとで検討してみると腑に落ちるということが多々あった。彼女に勉強を手伝ってもらえれば、もう少し僕の成績も改善されるだろうかと考えた僕への彼女の返答は、「「めんどくさい」」だった。
 
 何かがおかしいことに気がついたのは、去年の終わり頃のことだった。時々、自分がどこにいるのか思い出せないということが起きた。自分が現在に至った過程が記憶に無いのだ。試験勉強をしていたと思ったら、いつの間にかコンビニに居る、という風に。最初のうちは、ほんの二、三分のことだったのだが、いつしか、それが数時間に伸びていた。
 僕が真っ先に怪しんだのは、彼女だった。僕の意識下の思考である彼女なら、こんな芸当もできるだろう。では目的は何か、僕の全てを支配することだろうか。僕が彼女とはじめて話をした時、彼女が自分を、僕の敵だと呼んだことについて引っかかりがなかったわけではない。けれども、僕と彼女は友人のように、時々恋人同士のように、過去を共有してきた仲であり、疑いたくはなかった。自分自身が信じられない状況とは、これほどの不安を伴うのかと、僕はその時はじめて実感したのだった。
 彼女の返答は、「「そんな面倒臭いことしないよ」」と、至極僕らしいものだった。
 「「もしかして私が負荷になって健忘症とか引き起こしているのかもしれないけど、あなたが記憶に無いと言っている時間帯についても、あなたは私と話をしていたし、それを私は覚えている」」
 僕が大学の友人に確かめたところでも、僕は至極まともに振舞っていたようで、彼女の供述と矛盾はない。本当に、単に頭に負荷を掛け過ぎただけなのだろうかと、彼女に修験頻度を下げるよう頼んだところ、本当にその症状は減少したので、安心した僕は、彼女を疑うことをやめてしまった。

 最後の記憶から2週間が経っていた。家で本を読んでいたはずなのに、大学の自習室で数学を解いていた自分に気づいた僕は、もはや慣れてしまった動作で時計を確認して驚愕する。これほどまでに長い時間、記憶を失っていたのははじめてだった。そうして、次はもう目覚めないかもしれないと、僕の理性は最大限の警告を発していた。もはやなりふり構っていられない。僕は椅子に深く座り直し、呼吸を整え、目をつぶる。そこには明らかに3次元でない幾何学的な空間が広がっており、真ん中に、彼女が経っていた。
 「何をした」
 僕がきつく問うと、彼女は事も無げに答えた。
 「「あなたに取って代わろうとしたのだけど、失敗してしまったみたいね」」
 「なぜだ」
 「「それがあなたの望みだったから」」
 どういうことかわからなかった。僕が、自分を失うことなど望むはずがない。それとも無意識にそう思っていたのか、しかしそれは、彼女の意図であり、僕の敵だ。
 「「私の望みは、あなたのものでしょう?」」
 「違う、だから君がいるんじゃないか」
 「「だって、死にたそうにしていたじゃない」」
 「それは、僕の本心じゃない。本心であってはならないんだ」
 「「本心、ね。僕は本当はこんなふうに思いたくなかった。こんなふうに感じたくなかったという、あれのこと?」」
 「黙れ」
 それは、僕の抱えている決定的な矛盾だった。それを解消するために、彼女は生まれた。
 「「私は、あなたのことを考えて、それを解決しようとした。これが私なりのやり方」」
 「僕が消えてしまうじゃないか。消したかったのは、君の方だったのに」
 「「どっちだって同じこと、よ。それなら、あなたより私のほうが上手く生きられるのだから、あなたを消して私がぼくをやることは、理にかなっていると思うのだけど。ちゃんと勉強してるしさ、結構いい成績取ったのよ、いったいあなたは、どれだけ下手くそな頭の使い方をしてきたのやら」」
 「君がいなければ、僕だってもっと真摯に生きられるんだ。僕の行為全てが、僕の意識のもとにおかれるのなら」
 やれやれ、と彼女は呟いて、それから、ちょっと世間話をしましょうと言った。彼女の意図をはかりかねて、僕が黙っていると、彼女は僕を無視して話し始めた。見聞きしたこと、考えたこと、冗句、いろいろ。いつもどおり彼女の語り口は可笑しくて、いつの間にか僕は会話していた。ひとしきり笑ったあと、彼女は、楽しいなあ、と独り言のように言った。それはもちろん、僕の独り言でもあった。
 「「本当はね、あなたを独り占めしたかったんだ。僕は自分のこと大好きだから。私とあなたの立場を交換して、あなたを私の中に置いておきたかった。あなたはいつも、勝手に傷付いてくる」」
 「仕方ないよ、そういう性分なのだし」
 「「気に触った?」」
 「うん」
 「「許さない?」」
 「許すよ、もちろん」
 それは、僕の本音だった。彼女は魅力的な存在であり、僕の心に欠かせないものだった。許す許さないとかそういう次元のお話ではなかった。
 「「それじゃあだめ。あなたは私を憎まなくちゃならない。変わりたいんでしょう?まともになりたいっていつも言っていたじゃない。それは、ある意味自殺と同じようなもので、何かは死ななくちゃならない。私か、あなたか。あなたが私を消してしまわない限り、私はあなたを守り続けるよ、この2週間みたいに、ずっと。それでいいの?」」
 良い訳がなかった。同時に、とても魅力的な提案だった。僕の理性は揺れた。それでも、僕の心は決まっていた。
 「わかったよ、わかった。僕を、僕に返してくれ、頼む」
 「「はいはい」」
 彼女が苦笑する声が、想像上の耳に心地よかった。

 それから、何が起きたのかはよく覚えていない。覚えていられるような出来事だったのかも定かではない。けれども、朧気ながら、彼女が悲しそうに笑って手を振っているのを見た気がする。彼女の双眸に、何かがきらりと光るのも。
 目を開けると、僕は大学の自習室の椅子に座っていた。同時に、世界が今まで見ていたものとまるきり違っていることを理解した。僕の目に映るあらゆるものが、自分に分析されているその流れを意識することが出来た。全てに価値判断がなされ、情報の取捨選択がされていた。もう、彼女の声は聞こえなかった。そのような種類の思考がもはや許されなかった。僕に思いつかれることは、思いつくべく意図して思いつかれるものとなっていた。記憶は映像的であり、記号的であり、鮮明だった。彼女の記憶も、僕の記憶も、全て参照できた。彼女が何を意図していたのか、僕は文字通り自分のことのように知ることが出来た。僕は声をこらえて泣いた。彼女は、消えてしまった。

 僕は図書館を出て、空を見上げた。僕の知らない青空があり、青色があり、青色を見た。美しいなと、思うことにした。
 僕は何をしたかったんだっけなと、空白の中で考えた。