Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0427

 日記の更新間隔が精神の状態を反映しています。なんにもやる気が起きない。

 昼ごろ起きて、やっぱり気分が優れなかったのでずっと家にいました。なにもしないのも気が引けたので、一日中お絵描き。サークルの仕事も少ししたけど。ああ、ボイトレの制度的な部分を整備しなくてはなりません。参加者を増やすために途中参加、退室を推奨したり、裏でパート練習をやったりということを試みるつもりなのだけど、結局しょっぱなに体操発声をせなばならないあたり限界はある。どうしたものかね。

 結局、僕のしたくないことをしたくない気持ちというのは、したいことの部分にも及んでいて、それで、やりたいことであってもその全体を完璧に学ぶということはほとんどありえず、非常に歪に能力を発達させてきたのだな、とか。

 アニメーターのやっているイラスト講座動画をひたすら眺めていたのだけど、ああいう映像表現って、人間の認知の癖をハックしている感があって、いやまあその重要性も効果も理解しているけど、なんとなく納得しかねる部分があります。しかし考えてみればそもそもあらゆる芸術は多かれ少なかれそのような性質を持っているのであって、ということは僕は芸術全般に違和感を覚えねばならないはずなのだけど、実際のところそうでもないから、僕のその違和感は自分の描いたものにのみ適用されるのかもしれない。要は、ずるしている気持ちになるのだ。いや、これも単に描けないことへの言い訳かしら。

 色塗りは難しい。というのも、昨今のイラストレーションにおける色彩表現の技法は割と凄いところまで行っていて、しかもそれが至る所で使われているからデファクトスタンダードになってしまっているのです。だから、「上手な絵を描く」ためには、それらを取り入れた上で超えてゆかねばならない。しかし僕は色塗りに対しあんまり興味を抱いてこなかったから、モノの形を捉える能力ほどには、色彩を操る能力を発達させてきませんでした。そのギャップがコンプレックスを生じてしまっているようです。まあ、適当にお絵描きTipsでも調べて実践すれば、そこそこ簡単に一定のレベルには達するはずなのだ。僕にはそのくらいの性能はある。と信じたい。


 例の奨学金の話に少し進展があったのを書き忘れていたので書いておきます。この前東大の奨学金窓口から電話があって、今年は何故か継続手続きにミスが多く、学生支援機構のほうが例外的に再度申請を認める旨を言ってきたそうです。それで一昨日窓口まで出向いて、手続きの書類をもらってきました。それからまだ制度が用意されていないので申立書も書いてきてくださいとのこと。面倒な手続きが大分軽減されたのでちょっと気が軽いです。しかしやっぱり、学生支援機構のシステムのほうにミスでもあったのかな。結構注意して手続き進めた記憶があるし。まあ仮にそうだったとしてもあちらさんは非を認めたりはしないのだろうけど。