Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0724

 補講を受けに大学へ。一応書いておきますが別に僕が不真面目だから補講受けさせられてるんじゃなくて休講が多かったためです。カント周りの意識論の話なのですが、なんというかいよいよわからなくなってきました。単にいろんな用語が導入されているせいでわかりづらいけども、結局何も言ってないんじゃないかって思いたくなります。しかし同時に、科学だって本質的には同じ問題を抱えているのだということにも気付きました。科学には一応応用的な達成があるから発展を続けているよう思われるし実際そうなのだけれど、科学が世界のすべてを記述できるかという点においては、この私という意識は一体なんなのかということに解答を出すことと同じ困難を孕んでいるのではないか、と思われたのです。それは逆説的には、意識に関する諸議論は、真理に到達していないにせよ、科学的応用物と同じ程度の正しさは持っているということになります。異なるのは、心についての議論がはじめから真理を目標にしている、そうならざるを得ないというところでしょうか。「この私」についてはその性質上実験が出来ないのだ。

 講義が終わった後本郷の書籍部で永井均の「これがニーチェだ」を立ち読みしました。ニーチェの道徳観については結構同意できるところもあるのですが、それに同意してしまえること事態がニーチェ的なルサンチマンそのものな気がしてもにょもにょします。それから、弱者の道徳はつまり解釈の変更であるということが書いてあって、割と腑に落ちました。例えばあの葡萄は酸っぱいのだと考えたところでそれはただの敗北であるけれども、あの葡萄を食べないことが正しさなのだと新しいパースペクティブを作り上げたのなら、それは勝利であり、これがつまり弱者の道徳なのだ、みたいな。(立ち読みしただけなのでちょっと読み違えているかもわからない) 
 ニーチェの思想は徹底して反社会的です。根底には、良さというのはすなわち当人が良いと信じていることそのものであるという価値観があるように思います。もちろんその価値観事態が、ニーチェ的な転換の対象になるわけですが。
 ちょっと思ったこと。永井均は、繰り返しの構造というか自己言及的な構造をえぐりだしてくるのが得意な感じがあります。しかもそれを手癖で行っている印象を受ける。もしかしてこの人は、一つの強力な思考のモデルをもってして、そこに色んな物を放り込むことで機械的に哲学しているんじゃないか、ということを感じました。これはそのまま、しばらく前に僕がさたやみさんに指摘されたことなのだけれど。
 まあそれはともかくとして、ウィトゲンシュタインならば無化するところをニーチェは転換してしまう、それは(形而上)哲学への感度の低さに依るものだ、という指摘はちょっと面白いなと思いました。ニーチェが哲学者ではなく思想家として扱われがちなのはその辺に理由があるのでしょう。例えばA=Aという命題は、万物が流転するという世界観の中では、常に正しい訳ではない。時間の流れの中ではAが以前のAと同一であるとすることには根拠がないのだから。永井均によればウィトゲンシュタインはここで立ち止まるのだが、ニーチェはここに有用性なんかの尺度を持ちだして、A=Aと認めるほうが都合が良い、というようなことを言ってしまうわけです。そしてそれが鈍感なのだと。それについての議論に関しては少し納得のゆかないところがあるのですが、当の本がここにないのでこれ以上書けません。今度買おうかしら。
 カントに関しての一つの言及が気に入りました。文をそのまんま憶えているわけではないのですが、カントはこのように考えるしかないよねという風に哲学を展開した、それがカントの凄さなのだ、と。さっきの講義で考えていたことも合わせて、もう少しカントの考え方を学んでみようという気持ちになりました。(現代科学的に見て端的に間違っているところもあるらしいから鵜呑みにしてはいけないのだけれど)

 今日はものすごく暑くて、ちょっと体調を崩してしまいました。さっきからずっとお腹がいたいです。傷んだものを食べた記憶はないのでただの夏バテだと思います。痛いのは大嫌いなので早く治したい。

 多相睡眠について調べていました。きっかけはNeuroOnなるハイテクアイマスクを知ったことなのですが、睡眠の分割って健康にどうなの、ということでちょっとウィキペディアの記事を読んだところ、人間を含めた動物の基本の睡眠リズムは多相睡眠らしいです。単相睡眠の方が照明の発達によって生まれた生活様式らしい。そう聞くと、じゃあこまめに寝てみようか、となるわけですが、大学とかその他諸々の社会的あれこれは単相睡眠を前提としているので難しさがあります。まあ、夏休みの間だけでも試してみようかなあ。