Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0412

 自動車学校へゆきました。京浜東北線が止まっていたせいでいつも使っているバス(赤羽根発)が使えず、違うルートを使ってなんとかたどり着きました。危うく技能教習のキャンセル料を取られるところだった。
 自動車学校までの道すがら、道端に可愛らしい花が一輪咲いているのを発見してかわいい!となったのですが、同じ花が少し先にも数輪咲いているのを見てにわかに興醒めし、そんな自分の俗物加減に苦笑したり。
 今朝車の運転をする夢を見たおかげか今日はちょっとスムーズに運転できていた気がします。ようやく半クラッチの位置を身体が覚えてきたっぽい。
 学科教習の方も受けたのですが記述が曖昧(あるいはこれは人脳による世界認識の曖昧さである)でもやもやしました。「やむを得ない場合」って、なに(長門さんボイス)。これは道交法それ自体とは位相の異なる記述で、それゆえ「やむを得ない場合」なのだろうけれど、そういうものを当たり前に判断して生きなければならないというのは(つねに僕らがやっていることだとはいえ)狂気じみている。生きることは狂気だ。しかもなにがやばいって、このやばさがあまり認識されていないよう思えることです。ヒューマンエラーは確率的事象だってことが。それなのに過失は過失として責任を取らされたりする。恐ろしいことだ、と思う。
 
 髪を切りました。頭が軽くなった。

 家に帰って少し眠って(久々にカードマジックをやりたくなってカード(知らない銘柄だった)を買う夢を見た)、それから数学の勉強をしたり友人に渡すブータブルUSBメモリ(caffe導入)を作成したり。明日からまた大学です。9時には目を覚ましたい。