Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0315

 労働で変に頭を使ってほかに何も考えられない一週間だった。よくない。


 同僚と話していて思ったのだが、同じく道具を作りたい人の中にも、穴埋め式フレームワークを作りたい人と、新しい種類のレゴブロックを作りたい人との2種類があるようだ。ちなみに僕はかなり後者寄りである。世界の無限の可能性を前にしてそんな穴埋め表を作っても無意味だと思うし、自分の作ったレゴブロックで本質的に新しい形を作れるようになると嬉しい。ただまあ、決まりきった作業をうまく抽象化して自動化することの有用性も理解している。二つの極のちょうど中間あたりによい塩梅があるのだろう。優れた道具を作りたいものだ。


 香川県のゲーム条例が話題になっていた。インターネットは相変わらず脊髄反射的な批判に終始しているよう見えたが、これに関連していくつか気になることがあったので少し考えてみる。
 いくつかの論点が考えられると思う。まず、共同体による個人の私的領域への干渉がどの程度許されるのかということ。民主的共同体において共同体が個人を制限できるのは、それが構成員の総意である場合に限られると思う。しかし単純な意味での「総意」など実現できそうもないから、これは一種の契約とみなすべきだろう。すなわち、その共同体に所属することで得られる利益と、所属するために課される条件や共同体の運営方針とを勘案し、その上で個人が「主体的に」所属を選択したのだ、という共通認識が存在してはじめて、共同体の意思決定システムの帰結が共同体構成員の「総意」でありうる。この枠組みが成立するためには、人はどの共同体に所属するか自由に選んだのでなくてはならないし、それによって得られる権利と要求される義務について自覚的でなければならない。この建前は一般には満たされない。ほとんどの人は生まれた場所で生きてゆくし、共同体の法を参照せずに振る舞う。人間の能力の都合上仕方のないことだと思う。だから現実問題として、共同体は構成員に対して(彼らの主体的意図を超えて)強制力を行使せざるを得ない。自分と共同体との間に交わされている取り決めを理解しない構成員に対して、共同体秩序を維持させるにはそうする他ないからだ。この強制力は、経済的原理や警察権力などを媒介に行使されるが、中でももっとも直接的で暴力的なのが、子どもたちに対する教育だろう。民主的共同体が前提とする「主体性」(畢竟それも自体性を持つものではなく、振る舞いの一規範に過ぎないと僕は思うが、それはさておき)を構成員が持たない限り民主的共同体は成立しないので、子どもたちを「一人前の」人間にする営みとして教育は推奨されている。それはホモサピエンス幼体の人格に対する権力の干渉に違いないが、しかしそれはまだ「人間」ではないから問題ないということらしい。実際僕もそのように教育され、さまざまな型(これは狭い意味での常識に限らず、「科学的な」ものの見方なども含む)にはめられたことによって、他の構成員と共同で自然の脅威に脅かされることなく生きてゆくことができている。それは決して悪いことではない。その意味で僕の所属する共同体は、まあまあ出来の良いフィクションである。さて、ここまで民主的共同体において教育の暴力が容認されている理由について自分の認識を整理してみたわけだが、この認識に照らしてみて香川県ゲーム条例はどの程度正当だろうか。インターネットでは「私権(これが何を意味するのか僕はよく理解できていない……)の制限にあたるので認めるべきでない」との意見をいくつか目にしたが、それを言うなら、毎日一定時間子どもを学校に閉じ込める学校教育自体の正当性が怪しい。教育は公的なものだからという反論は理念的には正しいが、公共性を成り立たせる各構成員の主体性が必ずしも満たされるものではない(とくに子供については)ことは上に述べた通りで、だから現状容認されている教育の要項に「ゲーム禁止」を加えることの問題性は、結局のところ程度問題に過ぎないような気がしている。裏を返せば、ゲーム禁止が公共的ルールになる余地はあるんじゃないかということだ。で、その程度の如何が次の論点になるわけだけど、これは正直よくわからない。子供がゲームばかりしていることを問題視する風潮は社会的にゆるやかに共有されているように思われるが、
――とこの辺りまで考えて疲れたので続きはまた今度書く(03/16追記)。


 コーヒーの後に飲むお冷のほんのり甘い感じが好きだなと思った。