Redundanz

僕の言葉は、人と話をするためにあるんじゃない。

0506

 『ペスト』を読み終えました。本当によい小説で、感想など書く気になれない。せっかくなのでこの機会にもっと読まれるとよいと思う。

 人は神によらずして聖者になりうるか。これはジャン・タルーの問いかけだが、僕は不可能であると思う。僕らは生活のためと称してつねに(間接的に)人を虐げ殺し続けている。それは正義や自己責任だのいった言葉で正当化されているが、しかしわれわれの生活がなんらかの超越的基準と接続されていない限り、それは、困窮極まった人が自分の都合で人を殺すこととまったく違いはない。タルーはそれを拒否しようとした。僕自身は、自分が生き残るためにはそれをいとわないつもりでいるし、その社会の刃が自分に向いたときには、闘いこそすれ恨みはすまいと思う。僕のこの信条は、しかし、あくまで抽象的な思索のなかで形作られたものであって、実際に(タルーがそうであったように)正義がなされる場面を目の当たりにしてしまったら、容易に吹き飛んでしまうようなものなのかもしれない。わからない。原体験的情動抜きに倫理を考えることは、もしかしたら馬鹿げたことなのかもしれない。しかしいったい”なにを経験したら!”倫理を考えることが正当化されるのか。ほかの可能性を検討することが滑稽に思えるような、つまりある一つの行動原理を除いて他の原理をもつことが不可能になるような経験をすれば、それは聖者の近似となるだろうか?だがそれはあくまで近似であるし、そもそも極限的不自由が免責になるのであれば、僕らははじめから免責されている。僕らは結局そのようにすることしかできなかったのだから。根本的な問題は、言葉が可能性を、それゆえに自由意志を、生み出したことにある。のだと思う。それはある意味で幻想だが、しかし僕らは言葉の中で生きているのであって、言葉の影響を脱することは容易ではない。だから人間は結局、正義とか善といったほかの幻想の力を借りて、自分が悪である「可能性」と闘うことになるのだ。という意味では、ある経験の印象の強烈さが、あらゆる言語的解釈の強度を超えるような場合に、人はタルー的精神状態に陥るのかもしれない。だからどうってわけじゃないんだけど。

 なんやかんやで感想じみたものを書いてしまった。ついでに妙に印象に残った言葉をひとつ。「趣味の良さというものは物事を強調しないことにある」。まさにそうだと思うのだが、強調していきたいな僕は。